学校が休校になっているのを機会にして、学校や教育のあり方をゼロベースで反省して見直してみるのはどうだろうか

 新型コロナウイルスへの感染が広がっている中で、学校が休校になっている。このさい、学校や教育のあり方を反省して見直すことを行なうのはどうだろうか。

 戦後の日本の社会では、欧米に追いつけ追い越せでやって来て、それが一九七〇年代ごろまでつづいたとされる。一九八〇年代ごろになるとそれがほぼ完了することになった。形としてはほぼ欧米に追いついた。

 一九八〇年代ごろになると、日本は後発の近代における、欧米に追いつけ追い越せの目標を形としてはほぼ果たしたとされる。大学の進学率がそれなりに高まった。そこから目標を見失うようになり、何を目ざすべきかがきちんと定まらないままにいまにいたっている。これを大きな物語が失われたポスト・モダンの状況だと言うこともできるだろう。

 学校の教育では、何が肝心なことなのかの核が必ずしもはっきりとしているとは言えそうにない。形としての詰めこみ教育が行なわれているところがある。能動というよりは受動によっているふしがある。

 具体の教科として歴史では、現代に近い近現代に大きく力を入れて教えられることがのぞましいと見られるのがあるが、近現代はかなり手うすになっていて、そこに入るまでに時間切れになってしまう。そのために過去の戦争のあやまちにたいする反省がおろそかになっているところがある。これは政府の意図した思わくをふくむ。日本の過去の悪いことはうやむやにしようとか歴史修正主義の動きによる思わくだ。

 学校は国家のイデオロギー装置の一つであり、そこで行なわれる教育はまったく中立のものであるとは言い切れそうにない。時の政権に都合のよい偏ったあり方になってしまうのがあるのや、国に都合のよい従順な主体が形づくられてしまうまずさがある。

 国や個人にとってのぞましいような学校や教育のあり方がとられればのぞましい。いままさにそういうのぞましいあり方になっているのだとは言うことはできづらく、色々な問題を抱えているのがあるだろう。

 最高学府である大学に進学できる人とできない人の差がある。親に資産がある人とない人とで不平等になってしまっている。不平等による階層の格差が再生産されていて、親に資産がある人ほど高い学歴を持ちやすいという説が言われている。

 まったくよいあり方かそれともまったく駄目なあり方かという一か〇かや白か黒かの二分法で割り切ることはできないだろうが、きびしく見れば、学校や教育のあり方には少なからぬ逆機能(マイナス)があるのだと見なすことがなりたつ。

 参照文献 『考えあう技術 教育と社会を哲学する』苅谷剛彦(かりやたけひこ) 西研現代思想を読む事典』今村仁司