移動や動く者としての人間

 人間は動くものである。建築家の黒川紀章(きしょう)氏はそれを動民といい、ホモ・モーベンスと言っているという。動民であることをくみ入れたものがよい都市のあり方だという。

 都市は人間が動民であることと関わりをもつ。外から人をまねくことで都市は栄えるようになった。人が色々なところに移動することで、複数のもののあいだでの比較ができるようになる。そこから都市がつくられて栄えるようになるし、文化がおきてくる。『地中海 人と町の肖像』樺山紘一(かばやまこういち)氏によるとそう言えるのだという。

 人間は動くものではあるが、新型コロナウイルスへの感染が広がっていることで、動くことが制限されている。自粛がすすめられている。これはウイルスへの感染を大きくしないためにはやむをえないことだし必要なことだ。

 人間は動くものだとすると、ウイルスへの感染が広がっていることで、それが制限されて、これまでと比べれば全体としていわばやや静民となっているところがある。

 人間を移動者として見ることができるとすると、定住することを相対化して見ることがなりたつ。移動することを遊牧論(ノマドジー)につなげてとらえることができる。ひとところに根を張って定住しつづけることが必ずしも絶対に正しいことだとは言えそうにない。

 移動や動くあり方として、はじめの地点から目的の地点にたどり着く。そのとちゅうの中間の過程に意味があると見なせる。中間の過程に意味を見いだせるとすると、そこに質があることになる。たんにはじめの地点から目的の地点にすみやかにたどり着くだけでは、効率をよしとすることにしかなりづらい。はじめの地点から目的の地点にたどり着けるだけでも(たどり着けないよりかは)よいのはあるが、それだけを追い求めるのだといささか味気ない。作家の村上春樹氏がこうしたことを言っていたのを見かけた。

 移動して動くのには、目的の地点に効率よくたどり着くという目的合理性がある。それだけではなく移動や動くことそのものやそのとちゅうや中間に意味あいがあるという価値合理性もある。目的合理性によるだけだと効率を至上とするあり方になりかねない。質をとり落とすことになるおそれがある。

 移動して動いてどこかの目的の地点にたどり着こうとするのは運動(キネーシス)に当たる。これは目的の地点にたどり着くことによってはじめて完結するものであるという。それとはちがい活動(エネルゲイア)はそれそのものやその時点(とちゅうや中間など)において意味あいをもつ。遊びや文化や芸術などだ。

 目的合理性の点では、機械の乗り物を使って速く目的の地点にたどり着いたほうがよい。これは加速度によるあり方だ。それとはちがい、価値合理性に重きを置くのであれば、たとえばの話ではあるが、機械の乗り物には頼らずに、自分の体を使って体を動かしながら移動したり動いたりするほうがより効用が高いことがある。これは遅速度のあり方だ。

 サイバネティクスをつくったノーバート・ウィーナー氏は、過程こそが大事だと言っているという。はじめの地点から目的の地点にたどり着くことが大事なのではない。そのとちゅうの過程に意味あいがあるのだということだ。そこにしか意味あいはない。ちなみにサイバネティクスとはギリシア語で船のかじを意味するものだという。

 西洋の弁証法では、正と反によってうまくすれば合(第三の道)がなりたつ。その運動がくり返されつづける。合がなりたったとしても新しい正と反がまたおきてくることになる。止まることがない動きによっている。

 学問の学説では、前の説を否定するような新しい説が示される。いま正しいとかふさわしいとされている説であっても、あとに出てくる新しい説によって否定されることがある。それをうら返せば、いまよいとされている説は、前の説を否定することでなりたっている。すべての学問の学説がそうだというのではなく、正しいとされる説が持続して安定しやすいものもあるだろうが、経済学なんかでは新旧の説が入れ替わるところが強いのだという。

 定住をすることでは、それをひとところにとどまることだと言えるとすると、それにたいして遊牧論による見かたで見られる。定住を相対化することができるし、人間は移動や動くことが多かれ少なかれ避けられないのが見えてくる。人間が移動や動くことを避けられないのをくみ入れたあり方が探られればよい。そのあり方をくみ入れるようにして、国や民族どうしの固定化したぶつかり合いが和らげられるとのぞましい。

 参照文献 『難民問題 イスラム圏の動揺、EUの苦悩、日本の課題』墓田桂(はかたけい) 『哲学塾 〈畳長さ〉が大切です』山内志朗(やまうちしろう) 『笑いと哲学の微妙な関係 二五の笑劇(コメディ)と古典朗読つき哲学饗宴(つまみぐい)』山内志朗