ウイルスに感染することと応報―罪と罰のつり合いの正義

 新型コロナウイルスに感染した人の家に石を投げたり落書きをしたりする。そうしたことはあってはならないのだと地域の行政の長は呼びかけている。

 感染した人は悪く、していない人は悪くないと見なすのは、記号論でいわれる有徴と無徴のちがいだ。有徴だと印がつけられることになり、それが負のらく印のことがある。

 自由主義でいわれる視点や立ち場の入れ替えの可能性の試しをしてみたい。もしも自分が感染者だったらと置き換えてみると、自分の家に石が投げられたり落書きされたりすることをのぞむだろうか。それをのぞまないのだとすると、自分がしてほしくないことはほかの人にも同じようにするべきではないことが導かれる。

 ウイルスに感染してしまうのは悪いことなのだろうか。自由主義においては、自分から他者に危害を加えることは具体の義務に反することになる。ウイルスに感染しただけでは他者に危害を加えることに当てはまるとは見なせない。法の決まりに反していると見なすことはできない。もしもそれに当てはまるのであれば、ウイルスに感染した人がみんな捕まってしまうことになる。

 つり合いの正義では、法の決まりに反するなどの悪いことをしたら、それにたいする罰が下されることになる。この罰はこらしめであるというよりは、冷静な理性によってなされるものでなければならない。感情のうっぷんをぶつけるものではないから、理性によるやり取りであることがいる。そもそもウイルスに感染することは悪いことに当てはまるとは見なせないから、そこはできるだけ中立に見なすようにしたい。

 つり合いの正義で罰が下されるさいに、きびしい罰である厳罰が下されるのよりも、できるかぎり軽い罰のほうがよいのだということが功利主義からはいえるという。できるだけ軽い罰で高い効果をのぞめるものが一番のぞましくて効用が高い。罰はもしもそれを下すのだとしても必要悪に当たると言えるから、かりになくてもすむのならそのほうがよい。

 ウイルスに感染した人の家に石を投げたり落書きをしたりするのは、つり合いの正義においてつり合いをとることには当てはまらない。石を投げたり落書きをしたりすることは排斥することになるから不つり合いとなることをまねく。差別をしないようにできるかぎり気をつけて行きたいものである。

 参照文献 『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください 井上達夫法哲学入門』井上達夫罪と罰を考える』渥美東洋(あつみとうよう)