反緊縮か緊縮かの新しさと古さ

 左と右や、革新と保守で分けるのは古い。いまは反緊縮か緊縮かがおきている。大学の教授はツイッターのツイートでそう言っていた。

 たしかに、左と右や革新と保守の分け方は、現実にぴったりと合ったものだとは言えそうにない。それではくくれないようになっているところがある。

 大学の教授が言っているような反緊縮か緊縮かというのもまた、マルクス主義による階級の対立のようになってしまっていて、新しい見なし方だとはそこまでは言えそうにない。見かたによっては古さがある。

 反緊縮か緊縮かで分けてしまうと、あれかこれかになってしまう。あれかそれともさもなければこれかというふうに分けるのではなくて、それぞれがもっているプラスとマイナスを明らかにするのはどうだろうか。

 反緊縮か緊縮かの二つに線引きを引くのがふさわしい線の引き方なのかは定かとは言えそうにない。客観の線引きとは言いづらく、多かれ少なかれ主観が入りこむことになる。はっきりと線を引くことはできなくて、線の揺らぎがおきてくる。

 線の揺らぎがおきるのは、同じのとちがうのとがあることによる。何を同じと見なして何をちがうのだと見なすのかだ。対立するものであっても、お互いに共通点がまったくないとまでは言えそうにない。あんがい近いもの(似たもの)どうしであることでかえってぶつかり合ってしまうことがある。

 あまりに単純に線引きをしてしまうと、複雑な現実に合わなくなりかねない。財政の話とはちがうが、憲法の改正では、信念の護憲派改憲派や、論争の護憲派改憲派に分けられるのがあるのだと記者の星浩(ほしひろし)氏は言う。それと同じように、反緊縮か緊縮かでも、信念と論争に分けられる。

 信念によるのだと論争するのをこばんで、閉じたあり方でただ信念を補強するだけになりがちだ。閉じるのではなくて開かれたふうにして論争や討論を歓迎するのがあってもよいものだろう。

 西洋の弁証法でいうと、信念によるのは正はあっても反が欠けている。論争によるのなら正にたいする反があって、うまくすればそこから合が導かれることになる。正と反の互いの開かれたやり取りがあることによる。

 反緊縮でも緊縮でも、いずれにしても国が駄目になってしまってはまずいのだし、いずれにしても国がそれなりによくなれば国民の益になることがのぞめる。

 参照文献 『構造主義がよ~くわかる本』高田明典(あきのり) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『絶対に知っておくべき日本と日本人の一〇大問題』星浩 「二律背反に耐える思想 あれかこれかでもなく、あれもこれもでもなく」(「思想」No.九九八 二〇〇七年六月号) 今村仁司