首相の動画が一部からの反感を買っている

 首相の動画が一部から批判を受けている。動画の中で首相はいっしょに動画に(間接に)出ている音楽家と共に、なるべく家にいて自宅ですごすことをみなに呼びかけている。その中で首相は、高級そうな家の部屋の中でくつろいだようすでいすに座って犬(ダックスフント)を抱いたりカップの飲みものを飲んだり本を開いたりテレビのリモコンを操作したりしている。

 首相の動画は一部からひんしゅくを買っている。見る人の神経を逆なでするかのようなものだという声がある。

 首相のまわりにはイエスマンばかりしかいないことがうかがえる。動画をつくるにしても、たんに首相のことをよしとする視点だけではなくて、色々なほかの視点をくみ入れてつくればよかったのではないだろうか。

 動画をつくる過程で、イエスマンではなくて意地の悪い人がいれば見直しの役にたつ。わざと意地の悪い見かたをして、こういう受けとり方がされかねないとか、こういうふうに悪く受けとられかねないというふうに見て行けば、修正することができる。うっかりと見落としてしまっていた色々な穴があることがわかることがある。

 世の中は意地のよい人ばかりではない。意地がよいつまり政権にとって都合がよいように受けとってくれる人ばかりではない。かならずしも悪い意味ではないのを含めて意地が悪い人もいるのだから、色々な視点をくみ入れられたほうが、そのぶんだけ手間はかかるものの、世の中のあり方を少しは反映させやすい。

 文章を見直すさには、意地の悪い人だったらどう受けとるかという視点をもつと益になるのだという。自分の中で意地の悪い人の視点をもつと推敲をするさいに欠点や抜かりや不備を見つけることにつながる。江戸時代の思想家である海保青陵(かいほせいりょう)は文章を指南する中でそうしたことを言っているのだと文学者の丸谷才一氏が紹介していた。文章とはいっても江戸時代においてはいまの散文ではなくて漢文の指南であるが、いまにも通じるところが少なくないという。

 穴や抜かりがあるかを確かめるさいに、西洋の哲学でいわれる弁証法をもち出せるとすると、イエスとされるものだけでは十分ではない。イエスだけではなくて、それと反対となるノーがあることで、うまく止揚(アウフヘーベン)されることがある。それがなくて、イエス、終わり、完成、としてしまうと、手早くはあるが拙速となりかねない。ノーが欠けていて、止揚されず、修正されるきっかけがのぞめない。

 動画をつくるのであれば、せっかくなのだから、イエス、終わり、完成とするだけではなくて、そこに少しくらいのノーをとり入れることで、修正をきかせるようにしたほうが、よりよい内容になることが見こめる。少しくらいは意地の悪い見かたをとったほうが、ノーをとり入れる助けになる。

 動画だけではなくて、いまの政権が行なう政治のあり方もまた、イエスだけになっていることが少なくない。政権が自分たちのやることをイエスとするだけで終わっている。ノーと言うのは自分たちにとっての敵だということで敵を遠ざける。それで味方となるイエスマンばかりがまわりに集まることになる。イエスとするだけで終わるようなあり方になり、見直しが行なわれるのがのぞみづらい。

 参照文献 『恋文から論文まで 日本語で生きる三』丸谷才一