日本の国への批判はよくないことなのかどうか―批判に開かれているかどうか

 日本の国がやっていることを他の国などが批判してくる。それが日本の国の評判を落とすことになるとして、その対策として政府は一〇〇億円くらいの予算を投じるのだという。

 他の国などからの日本の国への批判は、かえってありがたいくらいのものなのではないだろうか。とらえ方によってはそう受けとれるのがある。

 他からの批判にたいして開かれているのがよいとは言っても、なかなかそれができづらいときもある。閉じてしまいがちなことはあるが、日本の国のやることが失敗におちいらないようにするためには、できるかぎり閉じないようにして開かれるように努めるようにしたい。

 日本の国がやっていることに落ち度や不手ぎわがあるから、他の国などから批判される。すべてとは言えないにしても、そういうことも中にはあるのだから、日本の国の落ち度や不手ぎわがあるとすればそれを認めるようにして、少しでも改めることにつなげて行く。大幅に改めることがすぐにはできなくても、少しでも改めることができれば、やらないよりはましかもしれないし、生産性を少しでも上げることにつなげられる。

 的を得ていない批判がされるのなら、それにたいして反論をすることはあってもよいけど、日本の国のやることがまったくまちがえることのない無びゅうなのではない。日本の国の誤びゅうが色々にあるとすればそれをさし示されることはあったほうがよい。

 日本の国については色々に見られるのはあるだろうから、参照点を色々に動かすことができる。参照点を高いところに置けば、日本の国はよくやっているとかうまくやっていると見なせるが、低いところに置けば、駄目なところが色々に見つかることがある。

 参照点を高いところに置いて固定してしまうと、悪いところを見つけることができづらくなるし、現実から離れた虚偽意識になってしまいかねない。参照点の高さと、現実とのあいだに開きがあく。ずれによる開きや隔たりがあることによってそこから批判がおきることになる。

 日本はよい国でありがたいというのはまったくもってまちがっているとまでは言い切れない見なし方だが、そのように国民をしむけるために政治権力がまく政治の偽のえさに引っかかってしまっていることがある。国家主義などによるえさがまかれる。魚が偽のえさであるルアーに食いつくように、政治の偽のえさに思いきり食いついてしまっていることから偽の満足化となっていることもあるから、かりに満足しているにせよ、それにたまには気をつけたいものである。

 参照文献 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司 『現代思想のキイ・ワード 増補』今村仁司反証主義』小河原(こがわら)誠