緊急のさいにはただ政府にしたがうことがよいことなのだろうか

 ウイルスへの感染が広まっているような緊急のさいには、政府の言うことにしたがうのがよい。政府を船長だと言えるとすると、船長の言うことややることにしたがうようにする。それがよいのだとツイッターのツイートで言われていた。

 ウイルスへの感染が広まっているという緊急のさいには、政府の言うことややることにただしたがっていればそれでよいと言えるのだろうか。それについては、ある行為がよいと言えるのかそれとも悪いと言えるのかを見てみることができる。

 よいか悪いかについては、一つには目的合理性がある。どういう目的があって、その目的を達するのにふさわしい手段と言えるのかだ。目的を達するのにふさわしい手段なのであれば合理性があるのでよい行為だろう。もともとの目的そのものがまちがっていることもあるからそこに気をつけることはいる。

 よいか悪いかについては、目的合理性のほかに、法にかなっているかや、社会の慣習に合っているかや、個人の好悪(好み)や、視点を変えてみたさいにどうかがあるとされる。視点を変えてみてなりたつことなら普遍のことに近く、たんに(どんなときであれ)そうせよということがなりたつ。視点を変えてみてなりたたないのなら普遍とはいえず、条件や留保がつく。

 緊急のさいに政府にしたがうべきかどうかでは、そのときの(いまの時点の)政府の気が狂っているということももしかするとありえるのではないだろうか。一見すると正気のようでいてじっさいには気が狂っている。政府が狂気におちいっていたり、またはとんでもなく愚かだったりしたら、国民に益になることはのぞみづらい。そのさいに政府にしたがうのは適したことであるとは言いがたい。正気と狂気は紙一重のところがないではない。

 たとえどんなときであっても、いついかなるさいにも、どのような政府であったとしても、緊急のさいには全面として政府にしたがえばよいとは言い切れないものだろう。そこには条件や留保がつくものだということになる。

 社会契約説で言われていることでは、個人の権利を全面として政治権力にゆずりわたしているとまではいえず、いざとなったら政治権力にたいして公民として抵抗や不服従をすることができる権利をもっているから、のぞまないのにも関わらず全面として完全に屈服させられるとまでは言えそうにない。

 政治権力が専制化しないように、ほかの権力である立法や司法や報道などとのあいだで抑制と均衡(チェックアンドバランス)がきいていなければならない。一権化するのは危ない。国家の公が幅をきかせすぎず、国民の一人ひとりによる自己統治と自己実現が少しでもなされるようであることがのぞましい。

 参照文献 『ぼくたちの倫理学教室』E・トゥーゲンハット A・M・ビクーニャ C・ロペス 鈴木崇夫(たかお)訳 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫