反日と、ただの反(アンチ)―ただの反としても見られる

 反日だとされるのがある。そこには悪い含意がこめられる。日本の国にとって悪いことだとされる。

 改めてみると、反日の反のところだけを見てみることがなりたつ。反はアンチであることだ。

 一般論でいえば、何かの反に当たるもののほうが正しいことは少なくないだろう。反に当たるからといってまちがっているとは言い切れそうにない。たんに反であるだけなのであれば、それが正しいこともあればまちがっていることもあるし、一か〇かや白か黒かの二分法では割り切れないこともまたある。

 ただの反として見てみることができれば、それはたんに自分の意見を持っていてそれを言っているというくらいのていどのことかもしれない。反ではなくて同なのであれば、ことさらに自分の意見を持ったり言ったりすることはいらず、ただ従ったり順応したりしていればよいことがある。

 反何々とされるものがあるさいに、何々は具体のものに当たるが、反はそれの反対に当たるものとなる。反何々が一組みではあるが、その組みをほどいてみると、たんなる反であるのをとり出せる。

 反何々が一組みになっているさいに、反であることでまちがいになるとは言い切れないし、何々に当たるものが正しいとは限らない。何々に当たるものとしてどのようなものが思い浮かべられているのかは、人それぞれによってちがうことがあるから、お互いに噛み合っているとはいえず、噛み合っていないことがある。そうであればお互いに議論がすれちがう。すり合わせることがいる。

 あることが言われているさいに、それをテーゼと言えるとすると、それの反対となるのがアンチテーゼだ。テーゼがまちがいなく正しいとは言えないことがあるし、アンチテーゼがまちがっているとは言えないことがある。

 もしもテーゼだけが絶対的に正しいのであれば、それと反対のものであるアンチテーゼはいらないわけだが、そういうことはそれほど多いのではないだろう。テーゼだけが絶対的に正しいのであれば、それで終わりになってしまう。すべてが明らかにされたことになる。

 何かが明らかになれば、別の何かが明らかにならないといったように、あることがわかれば別のことがわからなくなることが少なくない。まだ終わりにはなっていないことになる。そこで求められるのが反やアンチテーゼだろう。反だからといって必ずしも悪いものであるとはかぎらず、そこに一定の意味あいを見いだすことができることは少なくない。ただの反として見れば、それであるというだけで否定されなくてもよくて、(いついかなるさいにもとまでは言えないかもしれないが)有効性がのぞめることがある。

 政治においては、ただの反に当たるのは反対勢力(オポジション)である野党になる。もしも与党の補完勢力でないのであれば、野党は与党の反対に当たる。野党によって国民の民意の一部がすくい取られる働きがあるとされる。

 与党がすべての民意をくまなくすくい取れるのではないし、与党は社会の全体ではなく部分を代表するのにとどまるから、野党があることは欠かせそうにない。与党と野党とで不毛なぶつかり合いになるのだと国民にとって益はのぞみづらいのはあるが、対立し合うことがなければ政治もまたないので、完全に時の権力をよしとしてしまうような翼賛体制のようになってしまうのはまずい。

 参照文献 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『小学校社会科の教科書で、政治の基礎知識をいっきに身につける』佐藤優 井戸まさえ