テレビに映らないまたはテレビが映さないところに首相の生の現実の姿があるかもしれない

 テレビ番組などによって首相が構築されている。ほころびのない首相という像がつくられている。少しでもほころびがおきそうになると、そこは映されない。映すのが避けられる。視聴者の目には触れないようにされる。

 ありのままの生の首相の実像がテレビに映されるのではなくて、それが脚色されていて、構築されている。それによって首相の本当のところが見えてこない。本当はどうなのかというのがわかりづらい。

 首相がほころびを見せるとしたら、そこに意味がおきてくることが見こめるが、そこはテレビで映されるのが避けられる。ほころびを見せまいとする力がはたらく。その力はお上への忖度や空気を読む力だと言ってもよいだろう。国家のイデオロギー装置としての報道機関のはたらきだ。

 ほころびが見えてくるとしたらそこに意味がおきてくることが見こめるけど、どんどんそうなればよいというのではなく、それがないほうがよいというのもまたある。陶酔や滑らかさの効用だ。ほころびが見えないほうがよいのもたしかにあるが、それがあまりにも行きすぎてしまうと、現実から離れすぎた虚偽意識としての首相の像が構築されてしまいかねない。

 虚偽意識と化した首相の像が構築されているとすると、それにたいする批判が行なわれることがいる。その批判は覚醒のはたらきをもつ。虚偽意識としての構築された首相の像と、現実のあり方とがあまりにも隔たりすぎると、そこに問題がおきてくることは避けづらい。

 虚偽意識として構築された像がだんだんとひとり歩きするようになると、虚偽と現実とが転倒して、虚偽が現実にとって代わるといったようなことがおきてくる。疑似環境が現実だと受けとられる。ほんらいの現実と対応しなくなったり整合しなくなったりすることがおきてきて、ひどくなれば地面に根をもたない浮遊する空虚な幻想と化す。

 参照文献 『構築主義を再構築する』赤川学現代思想を読む事典』今村仁司