緊急や危機のときにおきてしまいかねない負のこと―排斥の動きと証拠(エビデンス)の有無

 緊急や危機のときだからこそ、みんなが一つになってまとまって力を合わせて行かないとならない。そう言われるのがあるが、それとはまた別の問いかけを投げかけるようにしてみたい。

 緊急や危機のときには、どのような負のことがおきかねないのだろうか。どのような負のことがおきかねないことに気をつけないとならないのだろうか。それは、少数者や弱者が(ふつうのときより以上に)不当に悪玉化されかねないことである。

 具体の例としては、関東大震災がおきたときに、そのあとに自警団がつくられて、朝鮮の人が反乱をおこすということで暴力が振るわれた。朝鮮の人と見なされた人に暴力が振るわれた。その中には誤って朝鮮の人だと見なされた人も含まれる。

 少数者や弱者が不当に悪玉化されることがおきないようにするためには、いつもより以上に懐疑の視点を持っておくとよいのではないだろうか。せっぱ詰まったような中では、心のゆとりを持ちづらく、早まった判断がされがちだから、それにはなるべく気をつけたいものである。

 どういうわけでどうなのかということを見て行くようにして、具体の証拠がないのにも関わらず、そうであるのにちがいないというふうに決めつけすぎないようにしたい。

 政府がなした政策について、緊急のときなのだから、具体の科学のエビデンス(証拠)なんかなくてもよいのだという声があった。この声にはいささか危ないところがなくはない。

 具体の科学の証拠がないような政策を行なうのであれば、それを頭からよいものだと信じこんでしまうことはできづらく、少なからず疑わざるをえない。どういうわけでどういうことをやるのかというのはできるかぎり明らかにした上で政策をなすようにしてもらいたい。

 どういうわけでどういうことをやるのかが明らかになっていないのであれば、ただたんにやるべきだからやるのだとなってしまいかねない。根拠がなかったり薄かったりする中で政策を行なってしまうと、それがよいことだからよいのだといった循環論法になるおそれがある。

 どういうわけでそれがよいのだと言えるのかや、どういうわけでそれをやるべきなのかを、うなずくことができるようなわけを明らかにした上でやって行くのがのぞましい。それが明らかでないのであれば、明らかにされるべきわけが明らかにされていないことになるので、十分によくわからないままにものごとを進めて行くことになりやすい。

 何が先決なことなのかといえば、なすべき手だてをすみやかになすことも大事だが、それと同じかそれより以上に、どういうわけでどういうことをやるのがよいのかをできるかぎり明らかにして行くことではないのだろうか。そこをしっかりと明らかにすることなくものごとを進めて行くのであれば、明らかにされることがいるような大事なことがあと回しにされてうやむやになったままになってしまう。

 修辞学の形式の虚偽論では、先決問題要求の虚偽というのがあるとされる。政治の政策であれば、まずは具体の科学の証拠があって、それにもとづいて政策が行なわれればよいが、証拠となる裏づけがまったくないのであれば、先決となる問題が片づかないままになってしまっている。

 何が先決となるのかでは、ことは急を要するから、何よりもとにかく早く手だてを打つことがいるという状況もあるかもしれないが、その手だてがどのような具体の科学の証拠にもとづいているのかもまた、先決となる問題として要求することができるものだろう。

 必要性の点では、必要なのかそれとも不要なのかを決めるうえで、必要なことをやれることもあるし、不要なことをやってしまうこともあるから、どういうことが必要で、どういうことが不要かを見て行くうえでも、きちんとした具体の科学の証拠にできるだけもとづきながらのほうがよりよい。

 必要なことをやれなかったり、不要なことをやってしまったりするのを防ぐためには、権力をもつ政治家が内々だけですぐに決めてしまわずに、外の人にもわかるように客観化や外化をして、不透明になるのではなくて透明性をもたせるようにできれば少しは安全だ。権力をもつ政治家は無びゅう性ではなくて可びゅう性をもつから、まったくまちがいをおかすことがないとは言えそうにない。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『論より詭弁 反論理的思考のすすめ』香西秀信 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『問題解決力』飯久保廣嗣(ひろつぐ)