国難といえるほどのものと、そこでのまとまりと説明責任―説明責任を十分に果たすことがいるのだと見なしたい

 いまは緊急のときだ。新型コロナウイルスの感染が広がっているさなかである。

 そうした中で、色々なことについてけちをつけたり、時の政権のやっていることをとがめたりするのではなくて、国をあげてみんなで力を合わせて危機を乗り越えて行くことがいる。テレビ番組の出演者はそうしたことを言っていた。

 たしかに、いまは感染が広がり出しているから、緊急や危機にあるといえるのはあるだろうし、それを乗り越えるにはみんなが力を合わせてまとまることがいるのだというのはわからないではない。そのいっぽうで、その中においてそれとは別にいることとして、どのようなことをやるべきなのかを見ておきたい。何をやるべきかは how to である。

 たとえば、空腹であるときには、空腹という状態から、何かものを食べることによって満腹になる。そこでやるべきことに当たることは、何かものを食べることだ。

 家から目的地に行くのであれば、家にいるという状態から、一歩ずつ足を進めて歩いて行く。それでやがて目的地につく。このさいには歩くことがやるべきことである。

 はじめにどういう状態にあって、そこから何をやることによって、どういう状態にいたるのかがある。それらをはっきりとさせておきたいが、それらのとらえ方は人それぞれによってちがう。客観のものであるとはいえそうにない。

 人それぞれによって置かれている状況がちがうから、そこから見えてくるものがちがってくる。どういう状態なのかがずれていたり、どういうところを目ざすのかがずれていたり、何をやるべきなのかがずれていたりすることがある。

 立ち場のちがいによって、ずれがおきてくるのがあるから、どの立ち場のどの見なし方がふさわしいものなのかはあらかじめ完全に決まっているとは見なしづらい。そこにまちがいのもとが含まれているので、まったくまちがいのない無びゅうによるのではなくて、可びゅうによることになる。まちがいを含むことをくみ入れるようにして、色々に意見を言い合ってやり取りをし合って指摘をし合うことがあったほうが、多少はよりよいあり方になりやすいのではないだろうか。

 参照文献 『創造力をみがくヒント』伊藤進 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし)