記者会見の空間における包摂と排除の線引き

 全国の小中高校を休校することについて首相は会見を行なった。

 その会見が終わるところで、記者の江川紹子(しょうこ)氏が首相に問いかけを投げかけた。まだ質問があるのだということで、まだ聞きたいことが色々とあるのだと言った。首相はこの問いかけに気づいたのかどうかわからないが、それには答えずに会見場をあとにして家に帰った。

 会見を仕切っていた司会者は、時間がないのだということで、あたかも機械的に店の入り口のシャッターを閉めるかのように、首相に都合の悪いような問いかけを許容範囲の外に追い出すことに努めていた。野球でいうならストライクゾーンの外のボール球だということだろう。

 このやり取りからうかがえることとして、空気を読む者と読まない者の図式がある。空気を読む者は空間の中にうまく包摂される。読まない者は排除される。

 首相の会見だけではなくて、官房長官の記者会見にもこの図式を当てはめられる。記者クラブに属する記者はえてしてお上の空気を読みがちで、それを読まない者は排除されがちになる。

 包摂(inclusion)と排除(exclusion)では、空気を読んでお上に批判を投げかけない者は包摂されて、批判を投げかける者は排除されやすい。このあり方だと国民の知る権利がないがしろになりかねないまずさがある。お上に批判を投げかけることで空間の中から排除される者こそが、ほんとうに意味のある問いかけを投げかけている見こみがある。

 記者会見の空間の中における包摂と排除の線引きを改めて見直すようにして、聞き分けのよい者だけを包摂して、悪い者を排除するのではないようになったらよい。聞き分けのよい者は、何の意味のある質問をすこしも持っていなくて、ただお上の言ったことを疑いもせずにそのまま受けとめるだけのことがある。受動で消極だ。そうではなくて、たとえ聞き分けがよくなくても、自分から意味のある質問を発せられたほうが積極性がある。

 お上の言うことややることは、基本としてつねに疑いうるものなのではないだろうか。お上のやることなすことが何から何まですべてまちがっているとは言えないが、お上の言うことは(政治家なので)カタリであることが多く、とりわけ国の中心の権力に近い地位の政治家ほど嘘をついているおそれがある。そのカタリに全面的に加担してしまえば、報道機関は国家のイデオロギー装置そのものとなり、時の権力の奴隷(たいこ持ち)になり下がる。

 ゲシュタルト心理学では図と地があるとされるが、かりに図を包摂として地を排除とできるとすると、その図と地を反転させられる。図よりも地のほうが値うちが高いことがあるので、図と地はつねに固定されたものだとはいえそうにない。地に着目して、地を図にしてみることがあったらのぞましい。

 参照文献 『質問する力』大前研一 『政治家を疑え』高瀬淳一 『現代思想を読む事典』今村仁司