国難とも言える状況だとすると、その中では時の政権への批判や検証はあと回しにするべきなのだろうか

 新型コロナウイルスへの感染が日本の社会の中で広まってきている。このことを戦時中と同じような国難だと見なすツイッターのツイートがあった。その中で、批判や検証はあとまわしにして、みんなで協力し合って一致団結することがいるのだとしていた。

 ウイルスへの感染が日本の社会の中で広まってきているのはあるが、それを戦争が起きている戦時中になぞらえるのはあまり適しているものだとはいえそうにない。

 修辞学による議論の型を当てはめてみると、ウイルスへの感染が社会の中で広まるのと、戦争がおきている戦時中とは、類似しているものではなくて差異によるものであると見なせる。だからそれぞれがちがうものだとして見なすことができる。

 戦争をすることはそもそも国際的には違法なことなのだから、そういう点であってはならないことだ。理想論にすぎないのはあるかもしれないが、力による支配ではなくて、法や文化による支配が行なわれるのがよいことだから、戦争がおきることそのものがおかしいことでありよくないことなのだと見なしたい。

 ウイルスへの感染が社会の中で広まっている中で、時の政権の言うことややることを全面的に受け入れるようにするべきなのだろうか。もし全面的に受け入れるのであれば、それは空気に支配されていることをしめす。全面的に空気を読んでしまっている。みなが空気を読むことによって全体がまちがった方向に進んで行ってしまうおそれは否定できない。

 時の政権の言うことややることは、まったくまちがうことがない無びゅうによるのだとはいえそうにない。まちがうことを避けられない可びゅうによる。

 難しいことに政権が中心となって社会の全体で立ち向かっているときなのだから、批判や検証はあとまわしにしておいて、ことが片づいてからそれらをやればよいというのは、一つの意見ではある。この意見には個人的には全面的にうなずくことはできそうにない。この意見そのものが正しいものなのかどうかを批判や検証するべきだからだ。批判や検証をあとまわしにすることについて、それがほんとうによいことなのかどうかを批判や検証することができる。

 政権が言うことややることに全面的に従い、みんなで一致団結してやって行こうというのは、それそのものを批判や検証することができる。政権が言うことややることに黙って従ってついて行き、みんなが同じあり方でまとまってやって行けばそれでほんとうにうまくものごとが片づくのかどうかが問われてくる。

 まずいことがおこっているさいに、それにたいする手だてを打つ(または打たない)わけだが、その手だてにたいして批判や検証をすることができるから、それをやって行くことが必要だし意味があることだろう。政権がいかなる手だてを打つにせよ、または打たないにせよ、手だてはあくまでも仮説にすぎないから、それが本当に正しいものなのかどうかはまちがいのない絶対の保証はない。有効ではない手だてを打っているおそれがある。それだとものごとが片づくことは見こみづらいし、かえって悪化させることもないではない。

 参照文献 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『考える技術』大前研一 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信