情報源と情報とのずれ―情報の質を重んじるか量を重んじるか

 情報源と情報とに分けられる。作家の平野啓一郎氏はそう言っていた。

 情報源そのものを知ることはできず、知ることができるのはそれについての情報だ。

 情報源についての情報が、完全に正しいものだとはかぎらない。その二つが完全にぴったりと合っているとは言えず、ずれていることが少なくない。

 情報の質と量では、質が高いのは情報源に合っているものだ。情報源とのずれが小さい。

 いまの時代は、情報の質が高くなりづらいところがある。大きな物語が通じづらくなっている。人によってよしとするものがちがっていて、すべての人をもれなく満足させることはできづらく、分断や極化が目だつ。

 情報の質を重んじるのはよいことだけど、その欠点として量がないがしろになってしまう。ほんとうは質が低いのにも関わらず、まちがって質が高いものだと見なしつづけてしまう危なさがおきる。

 情報源とずれていることを逆に利用して、質はとりあえず置いておいて、量によって見て行くやり方をすることができる。

 恋愛でいうと、まちがいなくこの人が運命の人にちがいないのだとするのは、質による見かただ。そうではなくて、どの人にもそれぞれのそれなりのよさがあって、たった一人には選びがたいとするのは、量による見かただ。

 点数でいうと、一〇〇点がただ一人いてあとはみな低い点だというのではなくて、どれもがよくても七〇点くらいで、それぞれが甲乙つけがたく、一〇〇点というくらいの完ぺきな人はいないのだとする。

 一〇〇点と言えるくらいであれば、情報源とぴったりと合っているわけだが、そこまでではなくて、せいぜいが七〇点くらいにとどまっている。そう見なせば量による見かたになるから、量を増やして行くというやり方ができる。

 いまの時代は大きな物語がなりたちづらいから、質が高いものにはできづらく、客観として一〇〇点にはできづらい。一〇〇点だと見なされているものがあったとしても、たんに上げ底にされているだけであって、ほんとうにそうなのではない。すべてのひとにとって質が高いとはなりづらくて、ある人にとっては高いが別の人にとっては低いことになる。

 質か量かでいうと、量よりも質のほうが大事なのはあるが、そうかといって質を大事にすると、その質がほんとうは高くなくて低いのにも関わらず、じっさいよりも高いのだと見なしてしまうことがおきかねない。ほんとうは情報源とのずれが大きいのにも関わらず、ぴったりと合っている情報だと見なすことがおきてくる。

 ほんとうは小さい物語なのに、それを大きな物語だと見なしてしまうようなことを防ぐためには、はじめから小さい物語であることをくみ入れておいて、量によって色々に見て行くのがあれば多少は危険性を下げられるかもしれない。しょせんは多かれ少なかれ情報源とのずれがあるのだから、そのずれが大きいか小さいかの程度のちがいにしかすぎず、何らかのまちがいを含んでいることがある。文脈をたった一つに限るのではなくて色々に増やして行くようにする。

 参照文献 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』西林克彦 『哲学塾 〈畳長さ〉が大切です』山内志朗(やまうちしろう)