首相の会食と間合い―間が合った行動だとは言えそうにない

 首相動静では、連日のように首相が会食を重ねているのがわかる。そのことを野党の議員から質問でとり上げられると、開き直るかのような態度を首相はとっている。会食は意見交換のためのもので、それは悪いことなのかという。悪いというのは決めつけだと言いたいようだ。

 たしかに、会食をしながら意見交換をするのはあるのだろうが、そこできびしいやり取りが行なわれているとは見なしづらい。空気が悪くなってしまうのは避けるはずだから、当たりさわりのないような、さしさわりがないようなことが話されているのだろう。社会の中のさまざまな人たちとまんべんなく会食をするのではないのだから、かたよりが小さくないのもある。

 間合いでいうと、新型コロナウイルスが日本の社会の中で広まることがおきている中で、それへの危機管理を優先するのは間が合った行動だ。それを優先させずに、会食することをくり返したのは、間がよい行動だとはいえそうにない。

 首相動静からうかがえるような連日にわたる会食が国民にとって広く益になるかどうかは疑わしいし、それに加えて間も悪い。そこを野党の議員は質問においてとり上げたのだが、首相の答弁はかみ合ったものだとは言いがたい。間の合った行動が問われるのがあるので、それがずれていると、目の前にさし迫った問題を片づけることの役に立たない行動をとることになってしまう。

 純粋に意見交換を目的としているとは言えず、色々な思わくが混ざり合っているものなのが会食だろうから、その必要性がいついかなるさいにも客観的にまちがいなくあるのだというふうには見なせないものだろう。意見交換をしたいのなら、それだけを目的とした場をもうければよいのだから、色々なものを同時にこなそうとすると、ことわざでいう二兎を追う者は一兎をも得ずになりかねない。よく言えば一石二鳥になるのはあるが、一つひとつが薄まってしまい、どれもが中途半端になることもまたある。

 理と気でいうと、純粋な意見交換は理に当たるが、そうではなくて色々なものが混ざり合った気によるものだと見なせる。純粋な理であるとすれば、場の空気が悪くなるのをいとわないはずだから、ご飯がまずくなる。いっしょにご飯を食べ合っておいしいという満足感を得ているのなら、それは気によるものである。仲が悪くならないように、和を重んじて、友好を温めて、味方をつくる気の度合いが大きいのではないだろうか。

 参照文献 『間合い上手 メンタルヘルスの心理学から』大野木裕明(おおのぎひろあき) 『韓国は一個の哲学である 〈理〉と〈気〉の社会システム』小倉紀蔵(きぞう)