大学は経済や産業の役に立つようであるべきなのだろうか

 大学は、経済や産業の役に立つようでなければならない。それに役に立たないようなあり方になっているのを改めないとならない。ツイッターのツイートでそうしたことが言われていた。

 大学では学問を営むわけだが、そもそも学問と経済や産業とは相いれないところがあるのではないだろうか。それというのも、学問を営む場である学校はもともとギリシア語のスコレーから来ていて、これがスクールやスカラー(学者)の語源で、ひまというのを意味する。そのいっぽうで、経済はビジネスでビジーつまり忙しさを主とするものだ。ひまと忙しさとは相いれるものとは言えそうにない。いわば水と油のようなところがある。

 もしも大学が経済や産業に完全に従属するのであれば、学問の営みができなくなることが危ぶまれる。そうすると大学の存在理由(レーゾンデートル)はなくなってしまいかねない。

 日本では明治の時代から大学が実利によるのをよしとするあり方がとられてきたという。実利に価値が置かれて、そうではないものは低い価値づけとなる。その延長線上として、大学が経済や産業に役に立つようであるべきだという見かたがとられることになる。

 大学がどのようであるべきかは、必ずしも経済や産業の役に立たないとならないとはかぎらなくて、国民の益になるようであればよいのではないだろうか。国民の益になるようなあり方が探られればよいし、どうであればふさわしいかについてはたった一つの答えが一義で決まっているわけではなくて、国民の決定に任されることがらだ。それと合わせて、大学のあり方にまったく何の問題もないということはないだろうから、色々にある問題がとり上げられて改められることがあればよい。

 参照文献 『近代の労働観』今村仁司