首相の答弁に見られるおかしさ―言っている内容が正しいかどうかとはまたちょっと別なところ(言っている内容のおかしさもあるが)

 首相の答弁では、引っかかることが二つ見うけられる。一つは、説明責任の他への転嫁と、もう一つは人格と議論の混同だ。

 首相は、自分にいちゃもんをふっかけてきたほうに説明する責任があるのだとしているようだ。これだと、首相はあくまでも白でありつづけていて、首相が灰色または黒だと言いつのってくる人が説明をする責任をもつことになる。

 首相が白だと見なせるのは、首相が灰色または黒だという仮説がまったく成り立たないときに限られるだろう。灰色または黒だという仮説があるていど(残された状況証拠などによって)成り立ってしまうのであれば、それは少なくとも一つの見なし方としては絶対的に否定されるものではなくなる。それを白だとするためには、首相が説明する責任を負うのだと見なすことができる。

 首相が白だというのであれば、そのことを確かだとできるようなしかるべき物的な証拠がないかぎりは、白であるということを疑うことはできてしまう。しかるべき物的な証拠がなくて、ただ首相が白だと言うだけなのであれば、その説得性はまちがいなく高いのだと見なすことはできづらく、うのみにはできないものだ。あますことなく包み隠すことなく正直にものを言っているとは限らないからだ。

 首相が白か灰色か黒かというのは、首相の言っていることを個人として信用するかどうかということではなくて、あくまでも具体の人格とは切り離された議論として見られるものである。それはいわば、法によることがらのようなものであって、そこに首相の個人の具体名を当てはめるものであるというよりは、もっと抽象化や一般化された仮説どうしのやり取りだということになる。

 いまの時点での具体の首相の言っていることをとくに強く信用しなければならないとすると、その理由は何なのかが問われてくる。自由主義の点では、普遍化できない差別つまり特権を与えることはよしとすることはできない。うなずける理由がないかぎりは特別に甘くあつかってはいけないし、特別に(ほかの人を)厳しくしすぎてもいけないから、公正さや適正さがいる。

 参照文献 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし) 『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください 井上達夫法哲学入門』井上達夫 『Think 疑え!』ガイ・P・ハリソン 松本剛史