首相と国民との類似性と差異―差異に目を向けることができる

 国民の多数から選ばれているのが首相だ。その首相にたいしては一定のまたは最低限の尊重をすることはいる。それとともに、完全に気を許すのではないこともまたいる。

 国民の多数から選ばれているのが首相だが、それは強みであるだけではなくて、それとともに弱みでもまたある。たんに強みであるというだけではない。それをうら返せば弱みであるともまた見なせる。

 たとえ多数からであるにしても、国民から選ばれているということは、国民(の意思)そのものではないから、ぴったりと国民と合っているのではない。何らかの形で国民からはかい離している。

 ぴったりと国民と合っているのであれば、国民と首相とが完全に類似しているということが言えるが、そうとは見なすことはできず、何らかの差異がある。国民のすべての意思をあますことなく完全に体現しているのが首相ではないから、悪い言いかたで言えば、えせやにせやもどきだ。そのえせやにせやもどきが、たまたま国民の意思に近づくことは中にはあるだろうが、遠ざかることも少なくないだろう。

 国民と類似したものとして首相や政権を見るのもよいだろうが、それとともに、差異もまたあるのだということを見て行きたい。それを見ることがおろそかになると、悪い形で象徴化されてしまいかねない。差異があることが切り捨てられてしまい、否定の部分が捨象されて抽象化される。国民と類似しているという一面だけが強調されることになる。

 たとえ国民との類似を強調するにしても、それは現実そのものではなくて、虚偽意識であるのに近い。時の権力がもつ虚偽意識が、国家のイデオロギー装置である大手の報道機関などによって増幅されて広められる。疑似環境であるものが現実そのものであるかのように伝えられる。それが時の権力による支配ということだろう。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司