首相にも適していないふるまいはあるが、野党の議員もまたまちがっている。テレビ番組の出演者はそうしたことを言っていた。
いっけんすると、首相と野党の議員の両方についてを批判しているのでつり合いがとれているようではあるが、不つり合いになっているのだと見なしたい。どちらかというと首相よりも野党の議員のほうが悪いのだとなっていて、悪いことの比重が野党の議員のほうにより重くかかっている。
首相も野党の議員もお互いさまでおあいこだというふうにするのだとしても、それでつり合いがとれたことにはならず、野党の議員のほうをより悪く見なしてしまうことがある。そうすると、首相の悪さを見逃すことになってしまい、首相の悪さを秘匿する(隠す)ことに手を貸すことになりかねない。
ありえるだろう問題点をあげられるとすれば最低でも三つのことがある。一つは首相や政権の悪さをかばってしまうことになるのがある。甘く見てしまう。時の権力の腐敗化を加速させることになるおそれがある。もう一つは大衆迎合主義になってしまうのがある。大衆に迎合することでよくない方向に流れて行ってしまいかねない。さらには(与野党の)立ち場が固定化してしまうまずさがある。流動化するのがさまたげられる。停滞や閉塞や悪循環をまねく。
首相の悪いふるまいにかりに言及をするのであれば、浅い言及のしかたにとどまるのではのぞましくない。表面的なところを少しだけとがめて終わりにしてしまうのなら、ふみこみが浅いのだと言わざるをえない。そこをもっと深く踏みこむようにして、深く掘り下げて見て行くことがのぞまれる。そうしないと、ちょっとだけ批判したつもりにはなったとしても、きちんとした権力チェックをすることにはつながりづらい。
野党の議員に(部分的に)悪いところがあるのはたしかにあって、それはかたよりがあることによる。そのかたよりというのは、野党の議員だけではなくて、首相や政権(や与党)もまた避けることができない。首相や政権のかたよりは、国民にとって害になるおそれがより高いのだから、そちらのほうをより重く見て、批判的に見て行くことがいる。
野党の議員にもかたよりがあるのはまちがいがないが、あたかもそのかたよりを首相や政権はまぬがれているかのように見なすのは適したことだとは言えそうにない。首相や政権のかたよりや偏向や逸脱が見逃されてしまうと、どんどんそれが歯止めなく大きくなってしまいかねない。現にそれがおきてしまっていると言ったら言いすぎになってしまうだろうか。
野党の議員や首相や政権についてをどのように見なすかは、人それぞれによってちがうもので、そこにもまたかたよりがおきることを避けづらい。なので、どのように見なすのかにはかたよりがおきてしまうのがあるから、自己決定に任されるのはある。何ぴとたりとも完全にかたよりをまぬがれるものではなくて、完全にまちがいを避けられるものではないから、中立で客観の見かたとは言えないが、もっと首相や政権のかたよりやまちがいの可能性が言われてもよいのに、それが十分に言われないでいるのがある。
時の権力のかたよりやまちがいへのチェックが不十分になっているのだと見なしたい。野党の議員に比べれば、首相や政権はかたよりやまちがいが少ないとか、もっと言えばそれらがまるで無いかのようにするのには疑問がわく。かたよりという点については、野党の議員と首相とで、どちらか一方だけがより強くかたよっているとはいちがいには言えないのではないだろうか。首相や政権は完全無欠な無びゅうなのではなくて可びゅうなのだということに力点を置きたい。
参照文献 『反証主義』小河原(こがわら)誠