桜を見る会とその前夜祭と、情報のあり方―情報を国民に広く知らしめる価値(自己統治と自己実現)

 桜を見る会とその前夜祭についてを、どのように見なすか。色々な見なし方ができるだろうけど、そのうちの一つとして、情報政治(infopolitics)として見てみることがなりたつだろう。

 情報政治として見てみられるとすると、いまの首相による政権が、情報の操作や情報の秘匿をしているおそれが高い。政権の都合のよいように情報をあつかっている。それの肩を持っているのが、大手の報道機関(の少なからず)だ。大本営発表のようなことをしてしまっているからだ。

 国民にたいしてできるだけ透明性の高い情報が示される。それが理想だとすると、そこから隔たってしまっていて、不透明となっている。できるだけきれいな情報が示されるのがよいとすると、そうではなくて、汚染されてしまっている。そのみなもとにいるのがいまの政権ではないだろうか。

 不透明さが高いのや、汚染度が高いのは、ないがしろにすることができづらい。きびしく言えばそう見なすことができるだろう。情報政治や言葉政治として見てみられるとすると、いちばん核となる情報や言葉のまずさがあるのだ。政権がそのまずさを抱えているのを問題視したい。

 理想をいえば、きわめて高い透明さや、きわめてきれいなものがよいだろうけど、現実にはそこまではのぞみづらい。そこそことかほどほどというのにとどまるのはあるだろうが、その許容度を外れてしまい、不透明さや汚れが大きくなってしまうのはまずい。その許容度の線が、ずるずると引き下げられてしまい、慣らされてしまうのは危ないことだから、避けたいものである。人間は慣れる動物であると言われるが、中には慣れてはいけないものもあるのであって、まひしてしまうとすると、持っているべき最低限の距離感を失うことになりかねない。

 参照文献 『情報政治学講義』高瀬淳一 『武器としての〈言葉政治〉 不利益分配時代の政治手法』高瀬淳一 『情報汚染の時代』高田明典(あきのり) 『楽々政治学のススメ 小難しいばかりが政治学じゃない!』西川伸一