国の借金が多いことと、その解決策―問題なしと見るか、問題ありと見るか

 日本の国の借金は一千百十兆円にのぼる。国民一人あたりでは八九六万円となっているという。

 このことについて、国の借金は国民とは関係がないとか、国民にとっては資産だから借金ではないとかということが言われている。国の借金がいくら多くなっても、国民にとっては悪いものではないのだから、不安や心配をいたずらにあおるのはまちがいだという見かたである。

 国の借金が多くても、問題がないと見なせるのか、それとも問題があると見なすべきなのか。そのどちらなのかは、問題がないかそれともあるかと見なすものだが、それとは別に、甘く見なすかきびしく見なすかというのもまたあるだろう。

 甘く見なすのだと、正しいかまちがいかや、よいか悪いかという二分法になりがちだ。どちらか一方だけが正しくて、もう一方はまちがいだとなる。そうではなくて、きびしく見て行くことにするのなら、まちがいを含んでいるおそれがある。

 甘く見なすようだと、まちがいを含んでいるのにそれを見逃してしまう危なさがつきまとう。よしとする見かたについて、認知のゆがみがはたらいたままになる。そうしたまちがいや認知のゆがみがあることをくみ入れて、それを確かめるようにするのなら、きびしく見て行くことになる。

 甘く見なすと、二つの面があるうちで、一つの面しか見ないことになって、もう一つの面をとり落としてしまうことがある。一つの文脈を見ることにはなっても、もう一つの文脈をとり落とす。プラスならプラスだけ、マイナスならマイナスだけとなってしまう。その危険性があるから、なるべく二つ以上のちがう面を見るようにすると抑揚をとりやすい。

 肝心なのは、国の借金が多くても、問題がないと見なすのか、それとも問題があるのだと見なすのかのいずれかだけではなくて、そうした(いずれかの)見かたによって、ほんとうに問題が解決することになるのかが問われる。問題にほんとうにとり組んでいることになるのかだ。たんに、解決するのだと思いこんでいるだけであれば、ほんとうに解決することにはならない。

 願望が必ず現実になるとは言い切れないから、願望思考と現実とを混同することは避けたいところだ。それを混同するのを避けるためには、甘く見るのではなくて、きびしく見て行くようにして、一方が完全に正しいとか、他方が完全にまちがっていると見なすのではないようにしてみることがいる。無びゅう性によるのではなくて、可びゅう性によるのが安全だ。

 参照文献 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『できる大人はこう考える』高瀬淳一