桜を見る会とその前夜祭と、それをとり上げる必要性―退廃(デカダンス)に目を向けてみたい

 桜を見る会とその前夜祭のことを、国会においてとり上げることがいるのか。それともとり上げないほうがよいのか。そのどちらなのかは、人によって分かれるところだろう。

 栄光とつまずきということでいうと、桜を見る会とその前夜祭のことは、いまの首相による政権の栄光に属するものではない。つまずき(の疑い)に属するものである。つまずきに属するものではあるが、それを必死になって否定(否認)しているのが政権のふるまいだ。

 お笑いで言われるフリと落ちでいうと、栄光が大きいとフリがきく。ほんとうに成果があがっているかどうかは置いておくとして、政権が自分たちの成果をほこればほこるほど、フリがきくことになるから、つまずいたときにそのあいだの落差が大きくなる。落ちのようになる。

 積極性があるかないかでいうと、桜を見る会とその前夜祭のことは、積極的に意味があるものでは必ずしもないだろう。前向きなものとは言えそうにない。どちらかというと消極的なものである。うしろ向きだ。

 消極的でうしろ向きなのは、有用性の回路から外れていることによる。積極的なものや前向きなものだけをよしとするのであれば、有用性の回路の中にとどまっている。限定されたあり方だ。

 有用性の回路の外にあるものなど、放っておけばよい。大した意味はない。そういう見かたができるだろう。その見かたはとれるが、それだけではなくて、それとはまた別の見かたもなりたつ。むしろ、有用性の回路の外にあるものに積極的に目を向けることがたまにはいる。その必要性がときにはある。退廃のものと向かい合う。政権や、いまの日本の政治の中にある呪われた部分に目を向けることである。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『西日の当たる教室で』千原ジュニア