いまの日本の政治に欠けているものの一つである討議の倫理―問答が不要とされてしまっている

 いまの日本の政治において欠けているものは何だろうか。それには色々なものがあるだろうが、一つには、国会での議論では、討議の倫理(ディスクルス・エティーク)が欠けてしまっている。そのために、まともな議論がなりたっているとは言えなくなってしまっている。討議の倫理はドイツの哲学者のユルゲン・ハーバーマス氏が言っていることだという。

 国会での議論で討議の倫理が欠けてしまっているのは、もっぱらいまの首相による政権の責任が大きい。政治権力が非倫理的な不正なごまかしの手を色々と用いているのが目だつ。許容できる範囲を超えてしまっているものが少なくない。

 討議の倫理が欠けてしまえば、問答をし合うことはいらないということで、問答無用のあり方になってしまう。問答無用でとにかく政権は正しいとか、与党は正しいのだということになってしまう。問答をし合う必要性が不要とされることになって、民主主義が形骸化する。たんに数の多さや少なさということだけになる。経済でいうと、お金を多くもっている者が正しくて、貧しい者はまちがっていると見なすのに等しい。この見なし方は一面的にすぎる。

 とにかく政権は正しいとか与党は正しいのだということになると、同語反復(トートロジー)のようになる。あらかじめ結論が決まってしまっているのである。それをただくり返すことになるだけだ。その結論には疑わしさがつきまとう。全面として正しいとは言えず、留保をつけざるをえない。

 問答をし合うことなどまどろっこしいだけであって、適当に片づけておけばよいというのだと、政権による不正義がはびこりかねない。その不正義が色々と目につくのがいまの現状ではないだろうか。この不正義が色々にあるのは、討議において非倫理になっていることによっているととらえられる。

 自分たちにとって都合の悪いものをいまの政権は敵だと見なしているが、その敵をむかえ入れるようでなければならない。それをあえてすることがいる。そうした懐の深さがないと、国の政治がきちんとなりたつことになりづらい。敵をむかえ入れて、討論をし合うようでないと、問答が不要とされたままになる。

 民主主義が形骸化してしまっているのは、討議の倫理が欠けてしまっていることによるのがあるから、それを立て直すことが行なわれればのぞましい。政権にとって都合の悪いものを敵だと見なすことを強めるのではなくて、それを軟化させるようにして、和らげることがいる。そうしないと、協調がなくてただ対立だけがあるということになって、不毛なぶつかり合いがおきるだけになりかねない。その不毛なぶつかり合いを力でねじふせるのは、無理があることだから、それをいかに片づけて行くのかということで、欠けてしまっている討議の倫理が求められてくる。

 参照文献 「対話的公共空間の可能性(一九九四年後半 論壇の潮流)」(「エコノミスト」一九九五年一月三日 一〇日合併号)今村仁司 「排除と差別 正義の倫理に向けて」(「部落解放」No.四三五 一九九八年三月)今村仁司