ウイルスの感染と、国や地域への(人にたいする)決めつけの見かた―みんながそうであるわけではない

 中国では新型コロナウイルスによる新型肺炎の感染が広がっている。そのことを受けて、中国の人にたいして、ただそうであるというだけで感染しているのではないかとか菌を持っているのではないかという見かたが一部ではとられてしまっている。

 世界では、中国人というのではなくて、アジア人というくくりで、アジア人であれば、ただそうであるということをもってして感染しているのではないかとか菌を持っているのではないかとの見かたが一部でとられているようだ。少しでもアジア人と見られる人がせきでもしようものなら、菌をまき散らすのではないかといったことで、そういう心理の不安やおそれをもっているのかもしれない。

 このことをとらえるさいに、修辞学でいわれる類または定義からの議論を当てはめて見られる。中国人であるとかアジア人であるということだけで、そのすべてを感染者だとか菌を持っている人だとかとは決めつけられそうにはない。適した類への当てはめや定義づけだとは見なせない。

 中国人やアジア人だというのは、新型コロナウイルス新型肺炎の感染者や菌の保有者だという十分条件とは言えないだろう。中国から感染がはじまって広まっているので、中国人やアジア人であることは、感染の出もとに近いことから、可能性としては感染していたり菌を持っていたりすることがありえるが、必然としてそうなのではない。

 形式と実質に分けて見てみると、中国人やアジア人だというのは、そういう形式(外見)であるのにすぎず、そこから感染しているとか菌を持っているという実質を絶対的に導くことはできないものである。ちがう形式だったとしても、もしかしたら感染していたり菌を持っていたりすることがある。

 中国人やアジア人であるという形式から、その実質を導いてしまうのは、まったくわからないというほどのことではないが、その論拠(根拠)を見てみられるとすると、そこまでしっかりとした確かなものではない。たんに形式だけから、こうであるということを導いているのにすぎないから、ほかにも色々なものをくみ入れて、偏見につながらないように慎重に見て行くことがのぞましい。

 参照文献 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)