桜を見る会とその前夜祭についてを国会においてとり上げる。それは意味のあることなのか。意味があまり無いのだとするとそれのもとはどこにあるのか。そう問いかけを投げかけてみたい。
桜を見る会とその前夜祭そのものに意味があまり無いというよりは、ちがうところから意味の無さがおきているのではないだろうか。その出もととなっているのは、首相の自己欺まんの自尊心(vainglory)だ。
首相の自己欺まんの自尊心が強いために、自己効力感(self-efficacy)を超えて、もはや万能感や全能感のようになっているのではないだろうか。それはもしかすると、無力感のうら返しの力ということなのかもしれない。力とはいってもまちがったものではあるが。
首相のもつ自尊心が過剰に強いことから、事実を認めることがさまたげられている。これによって、何がどうだったのかというのが明らかにされづらい。桜を見る会とその前夜祭のことを少しでも片づけて行くためには、何が事実であるのかを少しでもはっきりとさせるようにして行きたい。
たとえ首相や政権にとって不都合なものであるのだとしても、とくに公に関わることであるのなら、事実だと見なせることを認めて行くという原則がいる。この原則がとれていないために、おきたことがはっきりとはせず、本当のことはやぶの中といったことになってしまう。
哲学者のアリストテレスは中庸(ちゅうよう)をよしとしたとされるが、自尊心が強すぎてしまうとつり合いを欠くことになって、過信におちいる危なさがあるだろう。自分で自分のことをよしとしすぎることになって、そのよしとするあり方が肥大化して行く。過大化して行く。そこに裏打ちとなる根拠があればまだしも、それがないと、よしとすることが自己目的化する。認知のゆがみが大きくなってしまうおそれがおきて、それを途中で修正するきっかけをつかみづらい。こまめに認知のゆがみを修正する機会をいくつも持てるほうが安全だ。
自尊心が強くなりすぎないようにするために、中庸になるようにするためには、謙虚さがいる。謙虚さというのは、ただうわべだけの低姿勢さや表面的なものごしの低さを言うのではないだろう。そうではなくて、たとえ自分に都合の悪いことであったとしても、それがとくに公のことに関わるのであれば、それを認めるようにするということではないだろうか。そうした謙虚さが欠けてしまうのなら、自分はよいとか正しいという首相の認知のゆがみが大きくなることはあっても、小さくなることは見こみづらい。