桜を見る会とその前夜祭と、いまの首相による政権による他への責任の転嫁―純粋さの修辞の虚偽

 桜を見る会のことが、国会においてとり上げられる。そこでいまの首相による政権がやっているふるまいとは何だろうか。それは、自分たちをできるだけ白だとすることにかまけているのだと言えるだろう。

 いまの首相による政権は、桜を見る会とその前夜祭のことについて、あくまでも自分たちは悪くはないのだというふるまいをとりつづけている。自分たちは白だと言いはる。これによって、純粋さの修辞におちいっている。整合性に欠けていて、すじ道が通らない。

 正しいのが白い仮説で、まちがっているのが黒い仮説だとすると、政権が自分たちは悪くはないのだというのを、白い仮説つまり正しいのだと見なすのが苦しくなっている。そこにはかなり無理がおきていて、灰色や黒い仮説だと見なさざるをえない。

 一か〇かや白か黒かの二分法におちいるのをできるだけ避けるとすると、桜を見る会について、政権が白だと見なすのはそうとうに苦しい。政権と野党は、お互いに灰色だということで、どちらもが純粋ではありえない中で、お互いに向き合ってやり取りをすることがのぞましい。それができていなくて、政権は自分たちが白くて純粋だというのを無理やりに押し通そうとしている。

 政権が自分たちのことを白だとか純粋だとかとしつづけるのは、自分たちのほかのものに黒いのを押しつけることだ。責任を転嫁することである。まわりが悪いのだということにしている。それで、悪いとされたまわりの者は、ぬれぎぬを着せられるような形になるが、とくに責任をとるでもないから、けっきょくは誰も責任をとらず、無責任体制がまかり通ることになる。いざというさいに責任をとる者が不在だ。自由民主主義における競争性や説明責任を欠く。

 桜を見る会のことを追及する野党が一〇〇パーセント完ぺきに正しいのだとは言えないだろう。まったくの白とは言えないだろうが、少なくとも灰色であるということは言えるし、部分としては核を突いているところがあるとすると、部分としては白いとも言える。まったく何から何まででたらめなのであれば黒になるが、そこまでではない。

 何が悪いのかということでは、まず、桜を見る会とその前夜祭について悪いところがあるが、それだけにはとどまるものだとは言えず、ほかのものを含む。ほかの悪いこととしては、政権が、自分たちは悪くはないのだということで、白や純粋であるとしつづけることにある。それによって、悪い形の二分法におちいってしまっている。もっと自分たちを灰色とか(たとえ部分的にではあっても)黒だとかというほうへ近づけて行くことがいるのではないだろうか。そうでないと国会においてまともな話し合いにはなりづらい。

 悪い形の二分法だと、まったくまちがいがないとする無びゅうかそれともまったくのまちがいである誤びゅうかというひどく極端なものになる。この図式において、政権は自分たちを無びゅうだとしたいのではないだろうか。そこから無理がおきてしまっている。まったく問題ないとか、まったく当たらないとかという言い方にそれがあらわれ出ている。そこに悪いところがあるから、それを改めるようにして、無びゅうではなくて可びゅうや誤びゅうのほうに政権は自分たちを近づけて行くべきだろう。それによって政権の中にたまったうみを多少なりとも吐き出すことがあれば、汚さが少しくらいは和らぐ。

 参照文献 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫 『これが「教養」だ』清水真木(まき) 『トランスモダンの作法』今村仁司他 『政治学の第一歩』砂原庸介 稗田健志(ひえだたけし) 多湖淳(たごあつし) 『反証主義』小河原(こがわら)誠