桜を見る会とその前夜祭と、それを追及することの意味あい―忘却(レーテイア)と想起(アレーテイア)

 桜を見る会とその前夜祭は、個別のことがらだ。この個別のことがらをどう見なすのかは、それぞれの人によってちがうだろう。

 かりにそれを一般化できるとすると、おおいによる隠ぺいや抹消と、それの開示とのせめぎ合いというふうに言えるのではないだろうか。

 おおいによる隠ぺいや抹消があって、それの痕跡(こんせき)が残っている。あとに残された行動や発言の痕跡をたどって行って、何がなされたのかを探って行く。それは何があったのかを開示をして明らかにして行くことだ。

 二つの見なし方ができるとすると、一つはおおいがされたままの現実がある。もう一つはおおいがとり払われた現実がある。この二つのうちで、桜を見る会とその前夜祭のことでは、まだ完全におおいがとり払われてはいない。おおいがされたままになっているところが残っている。

 おおいがされているのと、それがとり払われるのとでは、現実の意味あいがちがってくる。条件が変わってくる。おおいがされている現実を見ているときには気がつかなかったことが、おおいがとり払われたときにはわかってくる。意味あいが変わってくるのだ。

 個別のことがらである桜を見る会とその前夜祭のことを、一般化して敷えんして見られるとすると、おおいがしてあって隠ぺいや抹消がされているままで、あとに痕跡が残されているのをそのままにしておいてもよいのかが問われてくる。そのおおいをとり払ったり、政治の権力に都合が悪い痕跡を意図して隠ぺいや抹消するのを批判したり、痕跡をたどって行ったりすることをやらなくてもよいのだろうか。

 ものごとが明らかにされないことは、現実の(現にいまある)時の政治の権力のあり方に波及する。それが明らかにされることになれば、そのこともまた時の政治の権力に波及する。いずれにしても、時の政治の権力をどう見なすのかにちがいがおきてくる。

 客観のありのままの時の政治の権力を見るというよりは、つくられたものを見ることにならざるをえない。それは、桜を見る会とその前夜祭を追及しようがしまいが変わりがない。追及しなかったとしても、おおいがかかっていて、隠ぺいや抹消が行なわれている中では、ありのままの生の政権を見ているとは言えず、ほんとうはどうなのかというのからは遠ざかっている。そこから遠ざかってしまうのは、政権が国民にたいして洗いざらいほんとうのことをすべてつまびらかにすることがのぞめないからだ。それは国民そのものではないことから来る政治権力の宿命とも言えるものだろう。

 参照文献 『知の論理』小林康夫 船曳建夫(ふなびきたけお) 『思想の星座』今村仁司 『知った気でいるあなたのための 構造主義方法論入門』高田明典(あきのり)