高齢になっても働きつづけたいという人が多いというが―労働にまつわるさまざまな問題がある

 高齢の人の中にも、働きつづけたい人はたくさんいる。高齢であってもずっと働きつづけられるようにすることがいる。いまの首相による政権はそうしたことを言っている。この裏には、人口が減って労働力が減少して行くことや、年金の支給を減らすことが関わっていると見られる。年金は財源が苦しくなっているためだ。

 どういう社会がのぞましいのかといえば、たくさん働くのではなくて、できるだけ働かなくてもよくなるようなあり方がよいのではないだろうか。働くことが少なくなることがのぞましい。人によって色々な意見があるだろうけど、個人としてはそう見なしたい。

 基本として働くことは他律であって、させられるものである。そうであるために、働くことが多くなるのではなくて、働くことが少なくなることが自由につながる。

 ナチス・ドイツでは、労働は自由にするという標語がとられていた。強制収容所に収容された人たちを労働させつづけるためにとられたものだ。ここには労働に価値をもたせるあり方がとられているが見てとれる。

 ナチス・ドイツに見られるのと同じように、これまでの社会では、労働に価値をもたせるあり方がとられてきた。労働するほどよいことだ。労働に価値が重く置かれるのは、資本主義であるにせよ、社会主義であるにせよ、いずれにしても同じだったのである。

 これからの社会では、労働に価値をもたせるのではなくて、できるだけ価値を持たせないようにする見かたがとられるようにして、労働することを減らすことがあったらよい。

 労働におけるまずいこととしては、労働が投げ売りになってしまっているというのが言われている。安い労働力としてこき使われてしまう。不当な抑圧や搾取が行なわれる。それが自己責任だとされてしまうのだ。

 封建主義の社会のように、労働が身分制となってしまっているのがあって、横並びではなくて縦並びとなっているとされる。労働のあり方が階層化されている。下の階層(身分)の劣悪さが、ほかのところにも負の影響としておよぶ。全体に悪い影響がおきる。

 それぞれの人が置かれている状況がそれぞれでちがっているので、一律にただ働くことはよいことだとか、働くことは益になる、とは言い切れそうにない。置かれている状況のちがいによって、ある人は溜(た)めつまり自由を十分に持っていたり、ちがう人はひどく不足していたり、といった不平等なあり方になってしまっている。その不平等さにたいする十分な理由づけはできそうになく、意味がよくわからないところがある。

 それぞれの人が置かれている状況はそれぞれでちがうのにも関わらず、ただたんに、駄目になったのは自分のせいだということで自己責任論がとられてしまう。そこには、ある人はもともと溜めが十分にあったり、別の人はもともと溜めがほとんどなかったり、ということがくみ入れられることがなくて、ただたんに現状の一面だけをもってして冷たく判断されることになる。

 自己責任論だと、その人にだけ目が向けられるから、個人の要因とされる。そうではなくて、個人をとり巻く外の要因もまたあって、それは状況の要因だ。個人の外である状況にも十分に目を向けて、そこにあるさまざまな悪いところを改めて行くことがいる。それがないと、ただたんにその人が悪いということにされてしまい、原因の当てはめ方に誤りがおきる。

 労働のあり方には色々とよくないところがあるとされているから、それらを改めていって、労働が価値化されすぎないようにすることができればよい。労働はよいことだということですませてしまうのなら、労働は美徳だとされていた封建主義の時代の道徳と同じだ。その順機能(プラス)だけではなくて、逆機能(マイナス)もまた小さくないのだから、マイナスの点も見ていって、そこをとり落とすことがないようにしたい。

 参照文献 『近代の労働観』今村仁司 『雇用身分社会』森岡孝二 『労働ダンピング 雇用の多様化の果てに』中野麻美 『社会階層 豊かさの中の不平等』原純輔(じゅんすけ) 盛山(せいやま)和夫 『反貧困 「すべり台社会」からの脱出』湯浅誠