ゴーン氏の事件と、日本の司法への批判―制度としての正義と実践としての正義

 日産自動車の元社長のカルロス・ゴーン氏は、日本から海外のレバノンに脱出した。ゴーン氏は日本で逮捕されていたが、日本の捜査の目をかいくぐって、海外に抜け出すことに成功した。

 ゴーン氏は、日本ではきちんとした司法の裁きがのぞめないということで、日本の司法のあり方に批判の声をあげている。これについては、制度としての正義と実践としての正義に分けて見られそうだ。

 日本の司法における、制度としての正義がきちんとしたものであるのなら、とくに問題はない。そうではなくて、そこに少なからぬ問題があって、ゴーン氏がそれをさし示しているのであれば、それを受けとめることがあったらよい。

 ゴーン氏は逮捕されていたわけだが、そのことと、ゴーン氏の発言とを分けて見られるとすれば、逮捕されていたからまちがったことを言うとは必ずしも限らないだろう。修辞学でいわれる人にうったえる議論では、発言者がどうかということから発言を判断することになるが、それを避けられるとすれば、発言者と発言を分けて見ることがなりたつ。

 ゴーン氏は、日本の司法にたいして、信頼が置けないということで、批判の声をあげている。日本の司法は、その声を受けとめるようにして、説明責任を果たすようにすることがあったらよい。ただたんに自分たちは正しいとするのではなくて、いまいちど日本の司法における制度としての正義のあり方を改めて見直してみる。そこに問題があるのなら、それを改めるようにして行く。

 日本の司法について、まったく正しいかそれともまったくのでたらめかと見てしまうと、白か黒かや一か〇かの二分法になってしまう。それを避けられるとすれば、灰色のところがあるのではないだろうか。それはゴーン氏についてもまた言えることではあるが。ゴーン氏もまたまちがいなく完全にまったくの白だとは言い切れないかもしれない。その点については色々な文脈で見られるだろう。

 日本の司法では、政治の権力におもねっているのが見うけられる。政治の権力の空気を読んでしまっていることがうかがえる。下にはきびしくて、上には甘いあり方になっているのは否定できそうにない。下の悪にはきびしいのだけど、上の巨悪には甘い。税金なんかでも、下にはきびしくおさめさせるけど、上の税金の不正な使い方には甘くて、二重基準(ダブル・スタンダード)みたいになっている。

 日本の司法は、政治の権力とゆ着しているようであり、三権(の分立)というよりは一権のようになってしまっているようだ。なので、ゴーン氏が日本の司法のことが信頼できないというのにも、うなずけるところがないではない。ゴーン氏とはややちがう形ではあるが、日本の司法や政治のあり方にはきびしい目を向けたいのがあって、十分に信用するに足りるようになっているとは言えそうにない。

 ほんとうに三権がきちんと分立しているのならよいのだけど、そうではなくて、政治の権力とゆ着しているようになっていて、その一権において司法の力が振るわれると、危ないところがないではない。国家主義のような中で司法の力が振るわれると、日本の戦前のようになって、国家の公と個人という図式になる。

 国家の公と個人という図式においては、国家の公が強者で、個人は弱者なので、個人のほうが分が悪いことが多い。作家の村上春樹氏の言うことを当てはめられるとすると、国家の公は壁で、個人は卵である。国家の公には、個人を排除するというとてもおそろしいところがあって、それが強く見られたのが、日本の戦前や戦時中なのだ。だから、そこに気をつけておきたいというのがある。

 参照文献 『一三歳からの法学部入門』荘司雅彦 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし) 『公私 一語の辞典』溝口雄三