国難とも呼べるものとしての少子化や高齢化と、政治や民主主義におけるまずいこと―かくされる国難

 少子化は、国難とも呼ぶべきものだと首相は言っていた。

 たしかに、少子化や高齢化は、これからますます深刻になって行くことだから、国難と呼べるものではあるだろう。それとは別に、政治において、国難と呼べるくらいのことがあるとすれば、それを何とかして行くことがいる。

 政治のとりわけ民主主義において、国難とも呼べるくらいにまずいことがおきているのだとすれば、それを何とかすることがのぞましい。そのまずいこととは、選挙のあり方で、とりわけ公職選挙法のおかしさがある。公職選挙法はいまの時代にぴったりと合っているとは言えなくなっている。

 政治では、大きな力をもつ一強が支配するようになっていて、それによって競い合って高め合って行くという競争が働くなってしまっている面がある。報道では、政治の権力ともたれ合いになっていて、報道の自由が損なわれてしまっているところがある。

 少子化や高齢化はたしかに国難と呼べるようなものだが、それとともに、それだけではなくて、もっと国難と呼べるようなものがある。それに当たるのが、政治や民主主義において、選挙のまずさや、抑制と均衡がはたらなくなっていて一強となってしまっていることである。

 おなじ国難と呼べるものであっても、少子化や高齢化はまだおもてざたになっているから、いちおう(形だけは)争点にあげられていると言えなくはない。そのいっぽうで、政治や民主主義における国難と言えるほどのまずいことは、争点にすらあげられていなくて、隠されてしまっている。おもてざたにすらされていない。

 ほんとうにきちんと少子化や高齢化にとり組むためには、おなじ国難とも言えるものである、政治や民主主義におけるまずいことを何とかすることがいるのではないだろうか。それが行なわれないと、政治への不信が改まりづらい。

 特定の政治家や政党への信頼というよりは、一般的な信頼が崩れてしまっていて、少数派や弱者が悪玉化されやすくなっている。一般的な信頼がなければ、人々を広く包摂する社会にはなりづらい。不信があることは経済の効率性の足かせにもなる。

 開かれた中できちんとした人が広く政治家として選ばれるようにして、抑制と均衡がはたらくようにして、報道の自由が十分にあるようになることが、めぐりめぐって少子化や高齢化を何とかすることにつながって行く。まちがいなくそうだとは言い切れないが、そのきっかけとなることは見こめる。

 参照文献 『デモクラシーは、仁義である』岡田憲治(けんじ) 『安心社会から信頼社会へ 日本型システムの行方』山岸俊男