いまの首相による政権と、肯定主義と否定主義―不つり合いになっている

 政治の権力にたいして、批判を行なう。それは否定としてはたらく。これを否定主義と言えるとすると、それだけではなくて、よいと見なすこともまたできる。これを肯定主義と言えるとしよう。

 否定主義と肯定主義はどちらもなければならないものだから、どちらかだけではなくて、どちらもあったほうがよい。どちらかだけになってしまうと、虚偽意識になってしまいかねない。どちらかだけにかたよりすぎるとまずい。

 否定主義には肯定主義から批判できるし、肯定主義には否定主義から批判できる。そういうようにして、一方にたいしてもう片方からの批判がなりたつ。

 かりに左派が否定主義によっているとすると、左派にたいする批判として右派による肯定主義がある。それはそれで、あってもよいといえばあってもよいもので、また気持ちとしてはわからないものではない。気持ちとしてはわからないではないというのは、悪い面とよい面があるとして、悪い面だけを言うのはかたよりがあるからだ。

 左派による否定主義を、肯定主義から批判するのは、一面としては正しいが、全面として正しいのだとは言えそうにない。そこのちがいがあるので、そのちがいがなくなってしまって、留保がついた正しさであるのが、留保を抜きにして全面に正しいとなってしまうと、肯定主義は誤りになることになる。

 あくまでも、肯定主義による正しさは、留保がついたものであるものであって、そこを忘れてしまい、その限度を踏みこえてしまうと、現実から離れた虚偽意識と化す。いまの首相による政権はそうなってしまっているような気がしてならない。肯定主義の行きすぎになっていて、節度のある穏当な肯定主義ではなくなってしまっている。

 肯定主義と否定主義は、それが何かという定義づけをはっきりとさせてはいないから、修辞学で言われる多義またはあいまいによる虚偽におちいってしまっているかもしれない。肯定主義とは、あるていどの現実的な不純さや汚れを認めるものだとされる。開かれている。制度でいうと民主主義や資本主義だ。否定主義は禁欲によっていて、決まりや規範を重んじて、(どちらかというと)純粋さをよしとする傾きがある。閉じている。

 ほかに肯定主義は両面性、多様性、非合理性、可塑性(柔軟性)、があるとされる。玉虫色ということだろうか。否定主義は一面によっている。否定主義と理想主義には親和性があり、それらが結びつくと原理主義の宗教となるとされる。否定主義が行きすぎると、完全に純化された管理(監視)社会となる。

 多義やあいまいになっているおそれは否定できないのだが、肯定主義と否定主義とは、ともに関係によってなりたっているというのが要点となるところだ。関係がないところでなりたっているものではない。

 関係によってなりたっているということは、相対的なものであるということであって、ほんらいは、左派による否定主義があるとするのなら、それが行きすぎになる誤りを正すものとして、留保つきで肯定主義が正しくなるのにすぎない。そうであるのが、しだいにほんらいのところが忘れられてしまって、留保が抜けて、ただ肯定主義が独立してひとり歩きしてしまう。

 肯定主義がひとり歩きしてしまうのは、ほんらいは、否定主義とのあいだのつり合いをとるために、肯定主義をよしとしていたのが、たんに肯定主義をとるだけになってしまう。はじめにあった、何のためにということが抜けてしまって、たんにいまの首相による政権であれば、その政権がただよいのだとか、正しいのだということになる。それはほんらいは、左派による否定主義の一色になってしまうのを防ぐために、つり合いをとる名目上の建て前がいちおうはあったのではないだろうか。

 肯定主義と否定主義ということでは、いまの首相による政権を見るうえで、整理することができていないかもしれない。そもそも、左派が否定主義だとか、いまの政権が肯定主義だということはあまり言えなくて、きれいに割り切れるものではなく、的外れになっているおそれがある。

 ようは、変な形でというかおかしな形で、肯定主義や否定主義がとられてしまっているのがいまの政権だと見られる。それらをとるさいには、反対のものがあるというのをくみ入れて、そのうえでそれとのつり合いを取ることがなければならないが、ただの否定主義とか、ただの肯定主義みたいになってしまっている。つり合いを取るということではなしに、ただたんによいとか、ただたんに悪いというふうになってしまっているのだ。

 参照文献 『〈現代の全体〉をとらえる一番大きくて簡単な枠組 体は自覚なき肯定主義の時代に突入した』須原一秀(すはらかずひで) 『知った気でいるあなたのための 構造主義方法論入門』高田明典(あきのり) 『論理病をなおす! 処方箋としての詭弁』香西秀信