桜を見る会についての批判と、その批判への批判―桜を見る会のことを批判することがもつぜい弱性

 桜を見る会のことで、いまの首相による政権は批判をあびている。それとともに、桜を見る会のことを批判することもまた、批判を受けている。

 桜を見る会についてを国会でとり上げるよりも、もっとほかにとり上げるべきことがあるのだから、ほかのことをとり上げるべきだ。これは、桜を見る会のことを批判することを批判している。

 桜を見る会のことを批判するのであれば、それを国会などでとり上げることになる。それをするよりもほかのもっと重要なことをとり上げるべきだというのは、桜を見る会のことの批判への批判だ。

 桜を見る会のことをとり上げるのは、さして意味のないことなのだろうか。これについては、意味がないといえばたしかにあまり大きな意味はないのかもしれない。引いて見てみればそう言えるのはあるかもしれない。それはあるかもしれないが、たとえ意味があまりないからといって、とり上げるべきではないとは必ずしも言い切れないだろう。

 桜を見る会のことを批判するのには、プラスの面とマイナスの面がある。プラスの面を見るのなら、批判したりとり上げたりするべきだとなる。マイナスの面を見るのなら、とり上げるべきではないとなる。

 桜を見る会のことをとり上げないのだとしても、そこにプラスの面とマイナスの面があることになるだろう。とり上げないで、ほかのもっと重要なことをやるのなら、それにプラスの面はあるものの、マイナスの面もまたあるのであって、すべてがプラスであるとは言えそうにない。桜を見る会のことの真相がはっきりとはせずにうやむやになって放ったらかしになりつづけるのがマイナスの面である。

 桜を見る会を批判することは、それそのものにぜい弱性をもつ。批判することもまた批判されるぜい弱性だ。そんなことはどうだってよいではないかとか、くだらないことだとか、とるに足りないことだとされる弱さをもつ。

 引いて見てしまえば、たしかにたいして大きな意味をもってはいないかもしれないが、そう見なすことには危うさがあるのだと言えないではない。引いて見るのは、いまの首相による政権がのぞむところだというのがある。できるだけわい小化させたい思わくがある。小さいことだと見なすのは政権にとっては願ったりかなったりだ。

 たんに引いて見るだけではなくて、引いたり寄ったりというふうに、色々に見ていって、色々にあるいくつもの文脈から見て行くほうが無難だろう。部分や全体像を色々に見て行くことができる。まだ全体像ははっきりとはしていないが。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』西林克彦 『できる大人はこう考える』高瀬淳一