反社会的勢力という記号表現にたいする独断と偏見―意味の拡散と収束

 反社会的勢力という語は、その時々の社会の情勢によって変わるので、限定的または統一した定義づけをすることができない。政府はそう言っていた。

 限定的または統一した定義づけができないのだとしても、まったく定義づけができないということにはならないだろう。

 みんながうなずくような完全に客観の定義づけはできないとしても、おおよその主観の定義づけはできるはずである。

 ある語の定義づけというのは、議論をする中においては、たいていは主観によっていて、自分に都合のよいものを使うことになることが多いとされる。自分に都合の悪いものであれば、議論をする中において自分が不利になってしまうから、それは避けられる。偏りがおきるのだ。

 いまの首相による政権にとって、とくにさしさわりがなくて都合の悪いものではないのなら、無難な定義づけがされることになるだろう。政権に都合が悪いものであるのなら、政権にとってできるだけ有利になるように定義づけがされたり、または定義づけそのものを避けることになったりするだろう。

 反社会的勢力という語の定義について、できるだけ適したとらえ方をするにはどうするべきなのだろうか。そのさいには、反社会的勢力という語について、独断をもってして性急に決めつけないようにしたい。

 語の定義づけをするさいには、どういう機能によるのかや、どういう構造によるのかによって定めるのがよいのだという。反社会的勢力であれば、それがどういう機能をもち、どういう構造によるのかがある。また、どういうものから区別されているのかというのもある。

 反社会的勢力の語の定義づけについては、もし定義づけができるのであれば、そうされているだろう。その証拠として、いまの首相による政権が、第一次の政権だったさいの二〇〇七年くらいに、反社会的勢力の語について定義づけをしていたそうなのだ。

 いまの首相による政権は、いぜんに自分たちで定義づけができていたのに、いまになって定義づけは困難だとしている。ということは、ある時点から定義づけが困難になったことを示す。いったいいつの時点からどういうわけでそれが困難になったのかを示すことがいるだろう。そうでないと、定義づけができたりできなかったりしているのだから、矛盾していることになる。

 政府が言うようにその時々の社会の情勢で、言葉の意味が変わってくることはあるかもしれないが、そうであるからといって、社会の情勢が変わったからといって、反社会的勢力ということで一般の不特定の人たちをさすようになるのだとは見なしづらい。特定の否定的な人たちをさすというのは変わりづらいところで、まったく反対となるものをさし示すようになるほど劇的に意味が変わることはありえづらい。

 反社会的勢力ということで、そこにどういう人たちが具体的に含まれるのかというのは、厳密にはっきりとさせることは難しいだろう。そこのちがいは人それぞれでおきるのはあるにしても、基本としては、できるだけ同じ意味のものとして反社会的勢力の語を使って行くことがいる。語の意味が同一になるようにしないと、あるときにはこれをさしていて、別なときにはまた別なことをさしている、といったふうになってしまう。

 そのときどきにおいて、意味がちがう使われ方をするようだと、統一性を欠く。関係者という語を何回か使うとして、あるときには深い関わり合いの人のことをそうあらわして、次に使うときには軽い関わり合いのある人をそうあらわす。そういうように、語の意味が使うときどきによってまちまちになっていると、語の意味が同一でないことになって、まずい発言の内容になってしまう。

 使う人や受けとる人によって、どういうふうに使うのかや、どういうふうに受けとるのかの幅はあるていどはあってもよいものだろう。その幅が色々でよいというのが行きすぎると、いい加減なあり方になってしまうし、正確さをいちじるしく欠くとらえ方になりかねない。

 できるだけ正確な語の使い方になるようにするためには、同じ送り手ではなるべく同一の意味で使うようにするべきだし、たがいにずれがあるのなら意味をすり合わせるように努めるべきだろう。意味が遠心に拡散しっぱなしでばらばらであってはまずいのであって、あるていど適したところに収れんや収束させることがいる。

 参照文献 『増補版 大人のための国語ゼミ』野矢(のや)茂樹 『正しく考えるために』岩崎武雄 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信