憲法の改正の議論(argumentation)と、その論拠(argument)―不確かさが大きく、保証がない

 国民の多数が、憲法の改正の議論をすることをのぞんでいる。国民の多数からの声を無視するわけには行かない。憲法の改正の議論をやらなければならない。首相は記者会見の中でそうしたことを言っていたという。

 国民の多数が憲法の改正の議論をのぞんでいるというのは本当のことなのだろうか。国民の多数の声とはいっても、その声には、たんに憲法の改正の議論をのぞむものもあれば、そうではないものもまたあるのであって、いちがいにこうだとは決めつけられそうにはない。

 多数か少数かということでは、多数の声だから正しくて、少数の声だからないがしろにしてよいとは言えそうにない。そこで肝心になるのは、正当性を問いかけることだろう。正当性を問いかけるには、多数だから正しくて、少数だからまちがっているというふうには言えず、少数の声であったとしても、それを重んじてみることがいる(少数の声だから正しいということではないが)。

 憲法の改正の議論では、その議論の担保や根拠がいることになるのだというのがある。担保や根拠もなしに、憲法の改正の議論をやっても、十分に実りのあるものになることは見こみづらい。

 いまの首相が、憲法の改正の議論をやっていって、それがうまく行くのだという担保や根拠はいったいどこにあるのだろうか。それを示してほしいものである。

 うまく行くのではなくて、うまく行かないであろうという理由はあげられる。ほかのところでの議論がきちんと行なわれていないことがある。国会では、野党の議員から質問されたことについて、それとはかみ合わないすれちがった答えかたをしばしばしている。

 議論の中には質疑応答も含まれるので、質疑応答のやり取りがきちんとできていないのであれば、議論がきちんとできていないことになる。

 きちんとした議論が行なわれるという保証がないのであれば、ずさんな議論のやり取りになりかねない。それだったら、まだやらないほうがましだろう。ずさんな議論のやり取りにはならないという十分な担保があるのだとは言えそうにない。そこがしっかりとしていることがなくて、やればうまく行くというのであれば、行きあたりばったりだと言ってよい。どう出るのかがかなり不確かだ。

 憲法の改正の議論をやることがいるのだというのは、絶対にまちがったものとは言えないが、それについてをうのみにはせずに、批判として見られるのはたしかだ。

 まず、ほかのことをさしおいて、なぜ憲法の改正の議論をやらないとならないのかということの論拠が確かとは言いがたい。憲法の改正の議論についやすことになる時間や労力にたいして、かけた時間や労力に見あうだけの実りがもたらされるのかの保証が十分ではない。悪く出ることもないことではないだろう。

 二分法によって、白か黒かや一か〇かで見るのは適してはいないから、絶対によいとか絶対に悪いというのではないが、憲法の改正の議論にまつわる色々な不備があるように見うけられる。その不備を放っておいて、ただ議論をしても、広く国民に益があることになるかは不確かだ。

 議論(argumentation)には理由(argument)を示すことがいるのだから、議論をすることをさも当然であるかのように当前視するのではなくて、国会での質疑応答のようなかみ合わないすれちがいの答弁にはならないのだということの十分な根拠を示すべきである。それが示せないのであれば、国会での質疑応答のようなすれちがいやかみ合わない議論が行なわれる見こみは小さくない。

 きちんとした議論になるというまともな根拠があるのならまだよいが、そうではないのであれば、しっかりとした理由を欠いたまま議論を行なうことになってしまう。議論をやるからには、それが民主的で効果のあるものであることがいるから、そうなることが保証できるのであることがいる。その保証があるかどうかをまず議論することがいるだろう。

 そうして色々に見て行かないとならないのは、もとを正せばいまの首相による政権が、国会の質疑応答において噛み合わないすれちがいの答弁をしていることによるのだし、説明責任を果たしていないことによっている。

 時間や労力をできるだけかけずに、憲法の改正の議論を行なうのはできづらいことで、ましてやいまの首相による政権だとなおさらそれはできづらい。理想的な議論や説明の能力をもった首相による政権ならともかくとして、その理想のあり方からかけ離れているのであれば、なおのこと時間や労力がかかってしまう。それは、いまの政権の日ごろの行ないがたたっているのであって、ほかの誰のせいというわけではない。

 開かれたあり方ではなくて、閉じたあり方なのであれば、たとえ政権にとって都合がよいのだとしても、いざというさいには、適正にものごとを行なうためには、時間と労力が必要以上に多くかかってしまうことになる。

 時間と労力が必要以上によけいにかかってしまうのは、いまの政権の言うことややることの不確かさがとても大きいからなのである。その不確かさというのは、言っていることの根拠が不明だとか、根拠が不確かだとか、十分な説明がないとか、批判を受けとめていない、といったことによる。また、いまの政権をとり巻いている社会の不確かさが大きいと言ってもよいだろう。

 参照文献 『よくわかる法哲学・法思想 やわらかアカデミズム・〈わかる〉シリーズ』ミネルヴァ書房 『増補版 大人のための国語ゼミ』野矢(のや)茂樹 『安心社会から信頼社会へ 日本型システムの行方』山岸俊男 『希望と絆 いま、日本を問う』(岩波ブックレット)姜尚中(かんさんじゅん) 『議論のレッスン』福澤一吉(かずよし)