憲法の改正の議論と、その議論についての議論(より上位の議論)―議論のやり方の問題

 国会で憲法の改正について議論を行なう。それとも、その議論すらも行なわない。そのどちらがいったい正しいのかということを首相は言っていた。

 首相は国会で憲法の改正の議論を進めたいのだから、議論を行なうのが正しいのであって、議論すら行なわない護憲派はまちがっていると言いたいのだろう。

 このさい、国会における憲法の改正の議論と、それについての議論ということで、より上位の議論(議論についての議論)というのを持ち出せる。

 国会における憲法の改正の議論に、まったく何の問題もないのであれば、それを進めるのが正しいことになるだろう。それとはちがい、それに少なからぬ問題があるのであれば、議論を進めるべきだというのはまちがいなく正しいということにはならなくなる。

 議論というさいに、わざわざ上位の議論(議論についての議論)を持ち出すのは、憲法の改正についての議論が国にとって大切なものだからである。できるだけ慎重に行なわれることがのぞましい。

 議論すなわちよいこととは必ずしも言えないことに気をつけたい。議論を進めることがよいことだというふうに含意をもたせるのはまちがいなく適したことだとは言いがたい。

 議論をするうえで大切なのは、たんにそれを行なえばよいということではなくて、よい結論が導かれるように、議論をとり巻く環境や状況をきちんと整えなくてはならない。

 とり巻く環境や状況がきちんと整っていなければ、議論はよいとも悪いともいちがいには言いかねるし、議論をやりさえすればよいとは言い切れなくなる。基本としては議論をするのは、しないよりかはよいことではあるが、例外は色々にある。

 与党である自由民主党が、所属する議員どうしで会議みたいなのを開いていたようだけど、その中で、会議の参加者である石破茂氏だけが、いくら発言の機会を求めても、司会者から無視されつづけたそうである。それで石破氏はおかしいということで抗議の声を上げたそうだ。

 こうしたように、議論のあり方がおかしければ、参加者や関係者の一部から不満が出ることがあるし、よい結論が出ることは見こみづらい。議論はすなわちよいことだとか、議論をやりさえすればよいということはならないことを示している。

 参照文献 『武器としての交渉思考』瀧本哲史(たきもとてつふみ) 『議論のレッスン』福澤一吉(かずよし) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一