与党である自由民主党の政治家で、野党だったときと、与党であるときとで、言っていることがちがっているのを見かけた―立ち場がちがうことで言うことが変わってしまっている

 野党の時代の自由民主党の政治家と、与党のときとを対比してみたい。同じ自民党の政治家ではあるが、与党であるときよりも、野党であるときのほうがましなのではないだろうか。

 このさいのましというのは、見識がわりあいにましだということだ。いまの自民党は与党だが、与党であることによって自民党の政治家はおしなべて見識が低くなっているように見うけられる。それも、政権に近ければ近いほどそうである。

 人のことについて、見識が低いのだと言うのは、さもえらそうなことを言っているように響くかもしれない。それについては、いったいに政治家というのは、とくに権力に近ければ近いほど、色々なことをやらなければならないので忙しい。忙しいと、見識を磨くゆとりがない。なので、もとからそうとうにしっかりとした基礎体力がないと、見識が低くなりやすい。精神論ではなくて物理の点からいってそうおしはかれる。

 与党の政治家の見識の低さには、ごく少数の例外はある。具体的には石破茂氏がいる。石破氏は与党の中でも野党のような位置にいる。政権に近ければ近いほど見識が低いということを裏づける例だ。

 野党のときと与党のときとを対比してみると、野党のときのほうがまだ少しはましだった。まだ言っていることがまともなところがあるにはあった。これは何を意味しているのかというと、日本の政治には原理がないことを示す。無原理に近くなっているので、野党から与党に移ったさいに、あっちからこっちへというふうにぶれぶれにぶれてしまうのだ。建て前から本音へ、といったようになってしまう。

 野党から与党に移ったのだとしても、与党の立ち場にこだわりすぎるのではなくて、もし野党の立ち場であったらどういうことが言えるのかとか、同じことが言えるのか、というふうにしてくれればよい。そうしてくれるのであれば、自由主義のあり方になりやすい。このあり方は現実の日本の政治ではきわめてのぞみづらい。ちゃんとした原理を重んじることがなくて、無原理や無原則に近いのが、とくにひどいように見なせるのが、いまの時の政権だと見なしたい。

 参照文献 「二律背反に耐える思想 あれかこれかでもなく、あれもこれもでもなく」(「思想」No.九九八 二〇〇七年六月号) 今村仁司 『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください 井上達夫法哲学入門』井上達夫