社会の有力者と会長とが会っていたとされる詐欺をはたらく会社を、あやしいと事前に見抜くことは可能か―じっさいには見抜くのは必ずしも易しくはない(人によっては)

 首相と会って、食事を共にしたことがある。首相からまねかれて、桜を見る会に出た。詐欺を働いたとされる会社は、人をだますさいに、首相などの社会の有力者たちと会社の会長とがじかに会っていることを引き合いに出して、信用があることをほのめかした。中にはそれによってだまされてしまった人が出た。被害者が出たのである。

 消費者担当相は、だまされた人が悪いといったようなことを言ったという。社会の有力者と会ったことがあるということを言うのは、それそのものがあやしいことだ。それを引き合いに出した時点で、疑いを持たなければならない。

 消費者担当相が言うように、社会の有力者とじかに会ったことがあると言った時点で、疑いを持つことができるのだろうか。それを引き合いに出したら、すなわちその人は疑わしいとか、疑わしいことを言うにちがいないと判断することができるのだろうか。

 詐欺を働いた会社によって、少なからぬ被害者が出てしまった。だまされた人が出てしまった。それはたしかなことだから、それを見てみるとすれば、なぜだまされてしまい、被害にあってしまったのか、というふうに問いかけられるのがある。

 なぜだまされて被害にあってしまったのかといえば、国の長である首相や、社会の有力者と、詐欺を働いた会社の会長が、じかに会ったことがあるというのがあることは否定できない。そのじかに会ったことがあるというのは、本当のことであって、その証拠となる事実がある。桜を見る会にまねかれたさいの招待状などがあるのである。それらがあることから、それに接したさいに、そうおかしな会社ではないというふうに判断することにつながったのだろう。

 首相をはじめとして、社会の有力者とじかに会ったことがあるくらいなのだから、そうした人が会長をつとめる会社が、そうおかしなところであるはずがない。それなりにまともなところであるのにちがいない。そうおしはかるのは、一つには親方日の丸の心性がはたらくことによっている。国の長である首相とじかに会うくらいなのだから、国がうしろだてになっているといったような面があって、そうおかしなことにはならないだろうという気にもなってくる。

 国の長である首相をはじめとした、社会の有力者とじかに会っている。そのことを引き合いに出したさいに、そうしたことを言っているからあやしいのだというふうに見なすのは、そう易しいことではないだろう。じかに会っていることそのものは嘘ではないのだとすると、そのことを引き合いに出すのは、減点の材料になるとは言いづらく、加点されざるをえない。だからこそ、そのことを引き合いに出す。

 社会の有力者に会っているから、その会社は信頼できるとか信用できるとかとは必ずしも言い切れないのは確かにあるにはある。場合分けをしてみると、社会の有力者と会っていたり関わっていたりするからといって、その会社が信用に足りることもあれば、足りないこともある。また、社会の有力者と会っていなかったり関わりが無かったりするからといって、その会社が信用できないとは言えないし、また中にはぜんぜん信用できない会社もあるだろう。

 場合分けをしてみれば、国の長である首相をはじめとした社会の有力者と、会社の会長が会っていたり関わっていたりするからといって、その会社が信用に足りるか足りないかとは必ずしも関わりが無く、切り離してとらえることができる。たとえ社会の有力者とつながりがない会社であっても、その会社が信用できないことにはならず、信用できる会社は少なくない。

 人間の心理や人情としては、社会の有力者と会社の会長がじかのつながりがあると言われれば、なにかそこに信用に足るものがあるという気になるのはとくにおかしいことではない。社会の有力者とのつながりがあるというのは、そうした人物との間合いが近いということをあらわす。そこに社会的勢力(social power)を読みとることができる。それを読みとってしまうことで、それがあだになってしまい、だまされたり被害にあったりしてしまうことになるのかもしれない。いったん正の印象が形づくられれば、自分の認知を確かなものにしようという心理がはたらくので、確証(肯定)の認知のゆがみが働きやすい。

 参照文献 『増補版 大人のための国語ゼミ』野矢(のや)茂樹 『間合い上手 メンタルヘルスの心理学から』大野木裕明(おおのぎひろあき) 『超常現象をなぜ信じるのか 思い込みを生む「体験」のあやうさ』菊池聡(さとる)