ローマ教皇が日本に来て、人々にうったえかけた―存在被拘束性と世界のあり方への参与

 ローマ教皇が日本にやって来た。核兵器の廃絶や、原子力発電から脱するべきだということを言っていた。ローマ教皇がそう言っていたことは個人としては高く評価できる。

 ローマ教皇は、ホームレスの人たちと食事を共にしたり、色々な慈善活動をしたりしている。これらの活動は布教の一環というのはあるだろうが、それをくみ入れたうえでも、意味のあることだろう。

 かりに偽善であると見なすのだとしても、やらない偽善よりもやる偽善のほうがえらいというのがある。俳優の杉良太郎氏は、自分がやっている慈善活動が偽善や売名なのではないかということについて、それでけっこうだということで、そのうえでやっているというあり方をとっているという。これはよい意味での開き直り方だろう。

 ローマ教皇といえども、中立で客観に正しいことを言ったりやったりすることはできないことだ。そこには存在被拘束性がはたらく。自分が立っている立ち場からくるかたよりをまぬがれることはできづらい。

 存在被拘束性というのは、社会学者のカール・マンハイムが言っていることだ。だれしもがそれをまぬがれることはできないが、そのうえで、世界のあり方に参与して、こうしたほうがよいという見かたを明示するのは、そこに賛成や反対の声がさまざまに起きることになるにしても、立派なことだし、倫理的および存在論的な勇気のあることだ。

 勇気というのは、にも関わらず、という精神によるものだという。個別の状況にたいする態度を決めるのが倫理的な勇気で、生の全体の態度に関わるのが存在論的な勇気であるという。

 参照文献 『事典 哲学の木』 『リベラルアーツの学び方』瀬木比呂志(せぎひろし)