桜を見る会と、情報の必要性のずれ―情報の操作と秘匿による情報の統制

 桜を見る会についてを、情報政治(infopolitics)の点で見てみることができる。それから見るとすると、色々なことが見えてくるだろうが、そのうちの一つとして、必要性というのがある。

 いまの首相による政権にとっては、必要性があるのは、情報をごまかしたり隠したりすることだ。これは情報の操作と秘匿だ。それらを合わせた情報の統制が行なわれている。

 広く国民にとって必要性があるのは、情報の開示や透明化だ。情報を開かれたものにしなければならない。この必要性は、それほど高いものだとは見なされていない。情報を開かれたものではなくて閉じたものにしようとしているいまの首相による政権にたいする支持率はまだ高いままにとどまっていることにそれが示されている。

 何から何まで嘘を言っているとは言えないかもしれないが、いまの首相による政権は、情報をあらわすのとともに秘匿している。政権が情報をあらわすさいに、じっさいにあらわしたものよりも、それによって秘匿されるもののほうが重要さが高いことが少なくない。

 いまの首相による時の政権の反対に当たるものは何か。そう問いかけを投げかけられるとすると、それは野党だとは必ずしも言えそうにない。いまの政権や与党の反対に当たるものは、それの代わりになるであろう野党ではなくて、情報の健全性なのではないだろうか。情報を閉じたものにしているのがいまの政権のやっていることなので、その反対となるのは、野党ではなくて、情報の健全性やまっとうさなのである。

 情報の健全性やまっとうさというのは、形式の価値のうちの一つだと見られる。そうしてみると、そうした形式の価値を重んじることは、ちょうどいまの首相による政権とは反対に当たる。ちょっと極端な言い方になってしまうが、形式の価値を重んじるのは、いまの政権にとっては、水と油のようなものに当たる。それを軽んじているのがいまの政権だからだ。

 嘘を言わないというのは、形式の価値のうちの一つだと言えるが、それを完全に守り切ることができるとは言えそうにない。現実の政治家にはなかなか守ることが難しいものではあるだろう。それにしても、その度を越しすぎているのがいまの首相による政権だという気がしてならない。

 野党よりは与党のほうがまだましだから、少しくらいは情報の操作や秘匿があってもかまわない。大目に見られる。そうした見かたはあるかもしれない。そういう見かたは成り立つかもしれないが、その代償というのがある。大目に見ることと引き換えに、二重基準(ダブルスタンダード)が進んで行ってしまう。

 子どもたちには、学校の道徳の教科で、嘘を言ってはいけませんとか、人をだましてはいけませんとか、ごまかしてはいけません、と教えているはずである。そう大人の側が教えているのにも関わらず、一番それらをやっているのがいまの大人たちの代表である、いまの首相による時の政権なのではないだろうか。学校の道徳の教科で、いくらよいことということで建て前を教えても、それには説得力があるとは見なしづらい。二重基準になってしまっているからだ。

 子どもにとって大事なことは、大人にとっても大事なことだろうから(子どもが大人になったら大事ではなくなることではないから)、二重基準であるのはのぞましいことだとは言えそうにない。

 子どもに教える道徳というのは、単純化したところがあるから、じっさいの現実の社会にそのまま当てはまらないところがあるかもしれない。じっさいの現実の社会というのは単純なものではなくて、多層性がある。だから、たしょうは二重基準になってもやむをえないのはあるだろうが、そこにはプラスとマイナスがあるのは否定できない。プラスを得るかわりにマイナスもおきることになる。

 嘘をついてはいけないというのは、現実としては完全に守り切れるものではないが、そうだからといって、それが反転して、嘘をついてもよい、となると危険だ。日常においてはまだそれがよいときがあるのだが、政治の世界ではとりわけそれは危険なことだろう。マイナスがプラスになるといった転倒したことになる。

 参照文献 『情報政治学講義』高瀬淳一 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください 井上達夫法哲学入門』井上達夫