国の長と偶有性―選ばれることの偶然性

 選ばれるということの持つ偶有性がある。選ばれるというのは偶然が作用することによるのが小さくない。

 アメリカで言うと、アメリカの大統領としてドナルド・トランプ大統領が選ばれたのは、まちがいのない確かな必然だということができるのだろうか。それについては、そうは言えないのではないだろうか。かなり偶然の左右したところが大きい。

 偶然が作用したのが小さくないのが、アメリカの大統領としてトランプ大統領が選ばれたことに見てとれる。トランプ氏が大統領に選ばれるのではなくて、ほかの人が選ばれてもおかしくはなかった。たまたまトランプ氏が大統領に選ばれたというところがある。

 日本のいまの首相にもまたそれと似たようなことが言えるのではないだろうか。とくに誰が首相に選ばれてもおかしくはない。不思議ではない。どこが与党であってもおかしくはないし、どこが野党であってもおかしくはない。

 言語学では、記号表現(シニフィアン)と記号内容(シニフィエ)の結びつきは気ままつまり恣意(しい)であるとされている。恣意性がある。この恣意性というのが、政治における国の長や、与党や野党にも言えるのがある。だれが国の長として選ばれるかや、どこが与党でどこが野党かというのは、気ままさによるところがある。たしかな結びつきだと言い切ることはできづらい。

 感謝をあらわす記号表現は、ありがとうでもよいし、サンキューでもよいし、シェイシェイでもよいし、カムサハムニダであってもよい。そのどれであってもよいというのは、たしかに結びついてはいないということであって、そこには恣意性がある。ちなみに、カムサハムニダというのは、(カムサというのが)漢語の感謝からきているのだという。

 日本の国では日本語が使われているのだから、感謝はありがとうであって、そこには恣意性はない、と見られるのがあるかもしれない。それにはたしかに一理あるのはまちがいないのだが、どういう記号であらわしてもよいので、その記号表現でなければならない確たる必然性があるとは言いがたい。そこに視覚および聴覚の恣意性があることを完全に否定することはできない。その形態がその形態であることの必然性は完全とは言い切れないから、形態(ゲシュタルト)が崩壊することがおきることがある。

 政治においては、民主主義というのは、恣意性というのをくみ入れた仕組みだということが言えるのではないだろうか。この恣意性をくみ入れないものは権威主義専制主義だ。

 民主主義は恣意性をくみ入れているので不安定である。権威主義は恣意性をとらないので安定している。

 民主主義では、だれが国の長に選ばれるかや、どこが与党でどこが野党かの入れ替えの可能性が大きくとられている。具体として誰が選ばれるのかということの結びつきが強くない。いざというさいに結びつきをほどきやすくなっている。

 権威主義では、誰が国の長であるかや、どこが与党でどこが野党かということが入れ替わりづらい。具体として誰が選ばれるのかの結びつきが強い。結びつきをほどきづらい。強く結びつけられることをよしとする。

 自由主義では哲学者のジョン・ロールズが無知のヴェールを言っている。この無知のヴェールをとるのであれば、自分がどういう人間なのかがわからないことになる。自分というものに恣意性があることになる。社会の中で、富者であっても貧者であっても、強者であっても弱者であっても、多数派であっても少数派であってもおかしくはない。その恣意性があるさいに、どういう社会のあり方であればよしとできるのかが探られる。

 感謝であれば、ありがとうはサンキューであってもよいしシェイシェイてもよいしカムサハムニダでもよいというのが民主主義だが、感謝はありがとうでなければならないというのが権威主義だろう。じっさいには、ありがとうでなければならないということはなくて、ほかのあらわし方でもとくにかまわないのである。世界的な視点から言えばそう言える。

 人が生まれてくることでは、精子卵子の結びつきは確率的に言えばきわめてまれな確率で結びつき合う。これは必然というよりは偶然というしかないことだと受けとれる。自分またはほかの人が生まれてきたのは、ある精子卵子どうしが結びついたことによっていて、それはほかの精子卵子が結びつくのであってもおかしくはなかった。もしほかの精子卵子が結びついていたとすれば自分はなかった。

 生まれたさいに親から名前がつけられる。名前が具体につけられるとしても、それは太郎でもよかったし次郎でもよかったし三郎でもよかった。花子でもよかった。その色々な中からたまたま太郎であれば太郎という名前になった。ある人が太郎という名前であることは、当たり前といえば当たり前のことだが、その結びつきは気ままといえば気ままだ。

 結びつきが弱いほうがよいか、それとも強いほうがよいかというのは、判断が分かれるところだ。結婚でいうと、愛が強いほうがよいのか、それとも弱いほうがよいのか。結婚では、愛が強いほうがよいに決まっているではないか、というのがあるかもしれないが、じっさいの現実としては、ある人どうしが結婚して結ばれ合うのは、運命だと見なさないのなら、偶然だ。

 経済学では、限界効用は逓減(ていげん)すると言われている。だんだんと効用は減って行く。それは結婚でいうと、愛はしだいに冷めて行くということだ。それには例外があって、冷めない愛というのもまれにはあることだろう。ただ多くのさいには、えてして愛は冷めて行かざるをえないのがあって、それは結びつきに恣意性があるということではないだろうか。

 参照文献 『法哲学入門』長尾龍一 『ほんとうの構造主義 言語・権力・主体』出口顯(あきら) 『ソウルの練習問題 異文化への透視ノート』関川夏央(なつお)