首相夫人にたいする性格づけ―私人か公人か

 首相夫人は私人である。いまの時の政権は閣議決定でそうしている。

 首相夫人は私人であるというのだが、その私人である夫人が、桜を見る会で招待者を選ぶことに関わっていたという。夫人の招待者の枠というのがあって、その枠を行使していたとされる。

 首相夫人は私人であるという性格づけはふさわしいものなのだろうか。桜を見る会に関して、自分の枠をもっていて、招待者を選ぶのに関わっていたのからすると、私人であるよりも公人であるというふうに見られる。

 公人とは何かというと、それは公職者(public official)と公的人物(public figure)に分けられるという。これはアメリカでとられている見なし方である。公職者は政治家や上級公務員をおもにさす。ほかに司法の職につく者を含む。公的人物はテレビなどの報道媒体に出ることができて、表舞台で活動する人をさす。

 日本とはちがい、アメリカでは公人にたいする批判がより広く許容されているという。日本のように、公人が私人その他をうったえるどう喝の訴訟(スラップ訴訟)は基本としては認められていないそうである。表現する主体に明らかな悪意があるという、故意または重過失が客観的に立証できるさいを除く。アメリカでは抑制と均衡(チェックアンドバランス)が重んじられているのと共に、表現の自由が広いほうがよいとされているので、日本よりも批判の許容度がやや高いようだ。

 首相夫人は、自分で自発的に公職についたわけではないにせよ、首相の夫人という立ち場であることから、その立ち場を利用して、公のことがらの意思決定に関与しているとされる。公の場で活動をしている(していた)。そうであるために、私人であるというのは苦しい見かたである。夫人の活動のあり方をくみ入れれば、準公人または公人というのがじっさいのところだと見られる。

 私人だというふうに性格づけをするのには無理があるし、もし私人だというのであれば、公のことがらの意思決定には関わらないようにするべきだろう。公のことがらの意思決定に関わるというのは、私人の領域を踏み越えたものだから、準公人または公人であるというふうに見るのが現実的だ。

 首相夫人が私人であるのなら、私人の領域を踏み越えたことをやってはならないし、それをやっていないのでなければならない。それを踏み越えてしまえば、私人であるとは言えなくなる。首相夫人は私人であるという性格づけには矛盾があることになる。私人であって、なおかつ私人ではないということになってしまう。すじ道が通らなくなって、私人であるということが修辞化することになる。現実としては、夫人が私人であるということは確かに実証または確証(肯定)し切れるものではなく、そうではないというふうに反証(否定)できる見かたがなりたつ。

 参照文献 『名誉毀損 表現の自由をめぐる攻防』山田隆司(やまだりゅうじ) 『反証主義』小河原(こがわら)誠