桜を見る会を、問いかけと答えの図式で見てみる―正しい答えはあとからつくられる(ねつ造される)

 桜を見る会について、問いかけと答えの図式で見てみる。桜を見る会というのが一つの問いかけで、それにたいして、それをどう見なすのかというのが答えだ。

 この会について首相は弁明をしたが、それは一つの答えだ。首相の弁明は、会という問いかけにたいしてのまともな答えになっていないように見うけられる。首相の弁明から、つぎつぎに派生する問いかけや疑問点が色々と出てくることになるからだ。

 会についての首相の弁明は一つの答えだが、それを何となく正解だと受けとる人もいれば、もっと積極に、首相の言うことはすべてが正解になると受けとる人もいる。首相が言うことであれば、すべてが正解なのであって、それは問答無用のことなのである。正解であるのにちがいなく、無理やりにまたは力づくであっても正解でなければならない。

 少なくとも、桜を見る会については(というか、それ以外にも色々とあるのだが)、首相の弁明は正解だとは見なしづらいのではないだろうか。不正解なのを正解だと見なすところに無理があるようなのである。会という問いかけにたいして首相が言うことは、まともにかみ合っている正解にはなっていないので、すれちがっている。ずれがある。

 桜を見る会のことを問いかけとして見られるとすると、その問いかけそのものがくだらないだとか、とるに足りないだとかというのはあるにはあるかもしれない。そういう答え方もあって、それはそれで正解だというのはあるかもしれないが、それとは別に、首相の弁明は正解にはなっていないように見うけられてならない。不正解なのを無理やりに正解にしてしまおうとしているように映る。

 首相の言うことをすべて否定するのはおかしいかもしれないが、たとえば食べものがあるとして、食べておいしくないものはおいしくないのではないだろうか。または、暗い部屋の中にいて、暗いものは暗いものだろう。それを食べものならおいしいとか、部屋なら明るいとかというのには無理がある。そういう無理な答え方をしているように映るのだ。

 ほんとうはどうなのかという真相というのはわからないものであって、絶対にこうだというふうに決めつけるのはまちがいだろう。色々に見られるのはあることは確かだが、ものには限度というものがあるのであって、その限度を超えて、問いかけにたいして不正解となるものまでを正解だとするのであれば、それがそのまま通るのだとは見なしづらい。それが通るとしたら変である。もしそれが通るのであれば、不正義に当たることが正義になってしまうからである。

 ものの限度というのは、日常で一般の人々がやり取りし合うところであれば、それなりの柔軟性をもつ。それなりの柔軟性があってよい。それとはちがって、政治の世界というのは、ものの限度がよりせまくなければならない。限度がよりきびしいものであるのが理想だ。そうでないと、いい加減なことが行なわれてしまいかねないからである。政治の世界で、日常と同じくらいにゆるい限度となったり、さらにそれよりもゆるい限度となったりするのは、首相の言うことが正解となるといったような、転倒したことになる。

 参照文献 『日本語の二一世紀のために』丸谷才一 山崎正和 『問答有用』佐高信(さたかまこと) 田中真紀子反証主義』小河原(こがわら)誠