表現の値うち―表現の自由が無くてもできる表現と、それがあることでできるようになる表現

 表現の自由があるか無いか。この二つに分けるとすると、表現の自由があることによってはじめてできる表現と、それが無くてもできる表現がある。

 表現の自由があって、それが必要十分条件となることでできるようになる表現は、毒である。中心へ忠誠を誓い、中心へ近づこうとするものではなくて、辺境や境界に位置するものだ。

 表現の自由が無くてもできる表現というのは薬に当たるもので、そこにはとくに毒は含まれていない。具体的には、時の政治の権力にごまをすったり、権力をよしとしたりするものである。

 かりに、表現の自由が無いか、いちじるしく制限されている状況を思い浮かべてみると、そこでできる表現というのは、毒が無い薬の表現に限られる。毒が含まれている表現は許されない。時の政治の権力にごまをすったりよしとしたりする表現は許されるが、それにたいして批判をするような表現は許されなくなる。毒のある表現をした者はきびしく処罰されることになるだろう。

 表現の自由が無くてもできるような表現と、表現の自由があることではじめてできるようになる表現を対比してみると、表現の自由があることではじめてできるようになる表現のほうがより意味があるのではないだろうか。

 価値をはかるさいに、まれなことほど価値があると見なせるのがある。ありふれたものには価値がおきづらい。まれなことをできるだけまれではなくさせるのが自由主義のあり方だと見なせるが、いまの日本の社会では、自由主義のあり方が損なわれていて、まれなものがまれになってしまっているところがある。

 自由主義が損なわれているのが見うけられるのが、とりわけ大手の報道機関の放送(放送の報道)だ。とくに表現の自由が無くてもできるような、毒がない薬によるものや、毒にも薬にもならないものが多く流れている。毒を持った表現が少ない。あっても弱い毒でしかない。毒を持った表現というのは、よほど自由主義がしっかりとしていて、それへの意識が高くないと広く行なわれることがない。

 文化人類学者のレヴィ・ストロースは、人を喰う社会と人を吐き出す社会というのを言っているという。人を喰う社会というのは、(喰うというぶっそうな言い方とは別に)その意味するところはちがいを持ったさまざまな人を広く包摂する社会をさす。アントロポファジーと言う。人を吐き出す社会というのは、人を排除する社会をさす。アントロペミーと言う。いまの日本の社会は、人を吐き出す社会になってしまっていて、よき社会である、人を喰う社会にはあまりなっていない。

 表現ということでも、表現を吐き出す社会ではなくて、表現を喰う社会であるようでなければならない。それが思想の自由市場(free market of ideas)が働いているということになる。単一の思想だけがよしとされて、それ以外のものが退けられるのだと、市場が働いていないことになる。それは自由主義のあり方ではないことを示す。

 参照文献 『ご臨終メディア 質問しないマスコミと一人で考えない日本人』森達也 森巣博(もりすひろし) 『新・現代マスコミ論のポイント』天野勝文 松岡新兒(しんじ) 植田康夫 編著 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『ほんとうの構造主義 言語・権力・主体』出口顯(あきら)