桜を見る会に見られる、多神教のあり方―日本の多神教による悪い点が出ている

 桜を見る会には、さまざまな人が呼ばれていた。その中には、いまの首相の地元の後援会の人たちが八〇〇人くらい含まれている。

 桜を見る会には、多神教のあり方が見てとれる。多神教のあり方になっているために、方向性が一定の方向に定まらず、色々な方向に向くことになる。

 会を一つの袋だととらえられるとすると、その袋の中に、色々なものを入れこんでしまう。

 一神教のあり方であれば、方向性をきちんと定めるようにして、趣旨(存在理由)をはっきりとさせるようにする。方向性や趣旨に合わないものは取り除けられる。色んなものをごちゃ混ぜにはしない。

 多神教のあり方だと、方向性や趣旨がぼんやりとする。それらを意図してぼんやりとさせることもある(今回の桜を見る会のように)。方向性や趣旨がはっきりとはしていないから、それらに合うものや合わないものが色々に混ざりこむ。

 一神教のあり方だと、あれかこれかをはっきりとさせやすいが、多神教のあり方だと、あれもこれもと色々なものを取ってしまいやすい。いまの首相は、自分の政権にとって益にはたらくということで、色々なものを取りこもうとした。自分の後援会に属する後援者ということで、自分に近接する者を、近接しているということをもってして会の中に接合した。支持をより強いものにしようとしたのである。

 多神教のあり方によって、自分たちの力を増して行こうとしたが、そのことがかえって危機をまねくことになった。いまのところ、いまの時の政権は危機にまともに対応できていない。危機から回避しようとしている。危機管理がぜんぜんできていないのである。それは桜を見る会に限ったことではない。情報化の時代なのだから、色々な行動の痕跡(こんせき)があとに残ることになるから、その痕跡をすべて消し去ってうやむやにすることはなかなかできそうにはない。

 一神教の西洋であれば、絶対の主体(absolute subject)となって、個人のそれぞれが自立しやすい。それが多神教の東洋だと関係の主体(referential subject)となるので、没個人となりやすく、個人が埋没しがちだ。何となく関係というのが重んじられることになって、関係のつながりということで集団主義(または中途半端な集団主義)になりやすいのだ。

 日本は、多神教による悪さだけではなくて、一神教による悪さもまたあわせ持つ。多神教によって、あれもこれもというふうに色々なものを混ぜこんでしまったり、いい加減なあり方になったりする悪さがあるが、それとともに、一神教による悪さもまた無視できそうにない。

 善と悪とか、よいのと悪いのを、二分法で分けてしまったり、一面的になったりするのが一神教の悪さの一つだ。その中間(灰色)というのがあまりとれていないことが多く、白か黒かというふうに割り切ってしまいがちだ。白の中の黒とか、黒の中の白というのがあまり見られづらい。多神教一神教の互いのよさではなく、たがいの悪さが複合しているのでたちが悪い。

 多神教のよさとしては、捨てる神あればひろう神ありというのがある。いまの日本の社会はこうなっているとは見なしづらい。自己責任ということが幅をきかせてしまっている。捨てられても、ひろう神が見当たりづらいし、いったん捨てられたら終わりで、捨てられた者が悪いのだとなりがちだ。それによって社会的排除や相対的はく奪(相対的貧困)が改められないで、悪くはなっても大きくよくなってはいない。

 ひろう神であるのがいまの時の政権だが、まんべんなく広く多くの人を公平にひろうというのではないし、一部の限られた人をひろう神ではあるものの、それ以外の人を捨てる神でもある。けっきょくはいまの時の政権をよしとする者しかひろおうとはしないし、それ以外の者のことは放ったらかしだ。いまの時の政権は、自分たちだけを(自分たちで自分たちを)ひろおうとしているのにすぎない。あとの者は(とりわけ自分たちにとって都合の悪い者は)捨ててもよいのだとしている。そう言ったら言いすぎになってしまうだろうか。

 参照文献 『一神教 vs 多神教岸田秀 三浦雅士 『チラシで楽しむクラシック 私をコンサートに連れてって』鈴木淳史 『危機を避けられない時代のクライシス・マネジメント』アイアン・ミトロフ 上野正安 大貫功雄訳 『社会的排除 参加の欠如・不確かな帰属』岩田正美 『法律より怖い「会社の掟」』稲垣重雄 「二律背反に耐える思想 あれかこれかでもなく、あれもこれもでもなく」(「思想」No.九九八 二〇〇七年六月号) 今村仁司