桜を見る会における、いまの時の政権の悪さのていど―類似性と比較と差異

 桜を見る会は、いまの首相の政権からはじめられたものではない。前の政権である旧民主党のときにもやっていた。だから、いまの時の政権だけではなくて、前の政権のときにもさかのぼって見なければならない。そう言われていた。

 たしかに、桜を見る会は、いまの時の政権からはじまったものではなくて、前の政権のときにも行なわれていたもののようだ。もっとも、前の政権である旧民主党のときには、毎年にわたって行なわれていたのではなくて、中止されたときもあったみたいである。災害などがおきたときには中止されていたという。

 前の政権である旧民主党のときにも桜を見る会は行なわれていたことがあるのだから、いまの時の政権が桜を見る会で適していないことをやっていたのだとしても、悪いことにはならないのだろうか。悪さがあるとしても、それを相対化することができるのだろうか。

 論点としては、いまの時の政権において、桜を見る会が適していない形で行なわれていたかどうかがある。その論点にたいして、前の政権でも会が行なわれていたことを持ち出すのは、類似性によるものである。

 類似性によることによって、いまの時の政権がやっていたことが相対化されるのかというと、そうとは言い切れそうにはない。類似性ではなくて、比較を持ち出せるからだ。比較を持ち出すのであれば、類似性に加えて、より強い理由によって、いまの時の政権のやっていたことが批判されることになる。

 類似性というのは、たとえば、人に一回損害を与えたのと、五回損害を与えたので、どちらも損害を与えたことには変わりがないのだから、ていどの差こそあれ、どちらも悪いとするものだ。それについて比較を持ち出せるとすると、一回損害を与えたのが悪いのであれば、五回損害を与えたのはそれよりもより強い理由によってよけいに悪いことになる。

 類似性があるとはいっても、まったく同じようであったのではないのであれば、差異があるという見かたがなりたつ。旧民主党のときよりも、いまの時の政権のほうが、度を越えてよりたちが悪いことをやっていたのであれば、そこには差異があるのであって、ちがうものなのだから、ちがうあつかいをしてもよいということになる。旧民主党のときにも、多少は悪いところがあったかもしれないが、いまの時の政権では、うんと悪いことをやっていたのなら、それを同じものとしてあつかうのが適しているとは言えないところがあるだろう。

 参照文献 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信