ぼんやりとしていて目的が不明確な会の名前―動機づけの適合性から見てみる

 桜を見る会について、適していない行なわれ方をしていたことが問われている。この会には税金が使われていることから、税金が適していない形で使われていたのではないかとして、野党の議員は国会で追及していた。

 あらためて見てみると、桜を見る会というのは、名前からして、概念としてきわめてあいまいだ。ぼんやりとしている。そこに悪いもとの一つがあるということができる。税金を使って会をもよおすのであれば、もっと具体として国民にとってどのような益をもたらすものなのかがはっきりと分かるような、公共における正当性が明らかになるような名前にするべきではないだろうか。ことわざでは、名は体をあらわすと言われているくらいなので。

 桜を見る会は、いまの首相によって、会の名前そのものが修辞(レトリック)となってしまった。修辞というのは、A と言うために(A とは言わずに)B と言うことをさす。(A とは言わずに)B と言うことによって A をあらわす。

 桜を見ることにかこつけて、桜を見ることを主たる目的とするのではなくて、裏の隠れ目的をねらう。ただたんに桜を見るだけなら、いまの首相をはじめとした与党の政治家の具体の益になるものではない。具体の益にならないことをやりたがるとは考えづらい。それが考えづらいのは、動機づけの適合性(インセンティブ・コンパティビリティ)に合わないからである。いまの首相をはじめとした与党の政治家が、自分たちの動機づけに適合しないことをするほど奇特だとはどうにも思えない。

 動機づけの適合性や互換性とは、経済学で言われているものだという。これは、自分にとって益になることをやり、損になることは避ける、というものだ。自分から進んで自分に損になることをやるのは、動機づけの適合性や互換性に合わないので、そこから、あやしい行動なのではないか、とおしはかれる。

 動機づけの適合性が合うようにとらえるとすると、首相をはじめとした与党の政治家は、具体の益をとりに行くはずだ。なので、政治家としての自分たちへの支持を高めるために動く。それで、自分たちへの支持を高めるために、桜を見る会を用いたわけだ。

 いまの首相による政権の前から、会がまったく善用されていたわけではないだろう。政治権力の権威づけみたいなことに使われていたところはあるのだろう。それをくみ入れたとしても、いまの首相のやっていることは度を超えているのではないだろうか。それとも、会をちょっとくらい不公正に用いたところで、そう大したことではなくて、目をつぶれるくらいの小さいことなのだろうか。色々に見られるのはあるかもしれないが、どうも、いまの首相のやっていることは、ゆでがえる現象のようである。そこにいちじるしく欠けてしまっているのは高次学習だ。

 参照文献 『ダメ情報の見分けかた メディアと幸福につきあうために』荻上チキ 飯田泰之 鈴木謙介 『組織論』桑田耕太郎 田尾雅夫