二〇二〇年の東京五輪の会場に持ちこむことの是非が問われている旗―類似からの議論によって見てみる

 二〇二〇年に開かれる東京五輪で、旭日旗(きょくじつき)を競技会場に持ちこむことは禁じるべきだ。国際オリンピック委員会(IOC)が持ちこみを禁じるようにするべきである。アメリカのコネチカット大学の教授であるアレクシス・ダデン氏はそう言っているという。イギリスのガーディアン紙に寄せた記事の中でそうした意見を述べている。

 アメリカのロサンゼルスでは二〇二八年に五輪が開かれるようなのだが、そこでアメリカの南部連合旗が振られることを想像してみてほしい。ダデン氏はそう述べている。アメリカの南部連合旗は、白人の優位を示すさいに極右によって用いられ、人種差別につながるものだとされる。それがよくないのと同じことが日本の旭日旗にもまた言える。

 ダデン氏が言うように、二〇二〇年の東京五輪で、会場に旭日旗を持ちこむことを禁じるべきなのだろうか。これについては個人としてはうなずけるものだと見なしたい。

 旭日旗という具体の旗についてをいったんカッコに入れて、ある旗もしくはもようが、国際的な場またはふつうの場において使用が避けられることがあるのかを見てみる。その例としては、ナチス・ドイツかぎ十字(ハーケンクロイツ)があげられる。ナチス・ドイツを象徴するものがかぎ十字だとされていて、ドイツの国内では使用は禁じられていて、一般的に使用は避けられている。使ったら非難の声をあびることになる。

 やや乱暴ではあるかもしれないが、ナチス・ドイツかぎ十字と、日本の旭日旗と、アメリカの南部連合旗を、類比によってとらえてみたい。それらが類比したものだと見なせるとすると、同じものにたいしては同じようにあつかうようにするべきなので、使用や持ちこみを禁じたり避けたりする理由になる。

 旭日旗という具体の旗のことからいったん離れてみて、ある旗またはもようが使われたり持ちこまれたりすることを実質として禁じることがあるのかというと、その例としてあげられるのがナチス・ドイツかぎ十字だ。そうしてみると、ある旗またはもようを使ったり持ちこんだりするのを実質として禁じることは、まったく非合理なことだとまでは言えそうにない。受け入れられているところがあるから、あるていどの合理性がある。

 ある旗またはもようを使ったり持ちこんだりするのを実質として禁じるのは、その例が現実にあることから、あるていどの合理性があるので、そこに日本の旭日旗を当てはめるようにしてみる。そうすることで、二〇二〇年の東京五輪の会場に旭日旗を持ちこむのを禁じる理由がなりたつ。この理由というのは、旭日旗を使うことが(状況しだいでは)悪いということで、ナチス・ドイツかぎ十字を使うことが悪いというのと意味としては同じだ。みんながもれなくうなずけるような、うむを言わさぬ絶対的な理由というわけではないものではあるが。

 一か〇かや白か黒かというのではないから、絶対の善や絶対の悪というのではないが、旭日旗を使うことにたいして批判がおきるということは、旭日旗に悪いところ(またはその見こみ)があることをさし示している。それは、ナチス・ドイツかぎ十字を使うと批判がおきるのと類比できる。まったく同じことだとまでは言えないものだが、まったく異なっているものだともまた言えず、共通点がある。

 ここで言ってみたものは、修辞学でいう類似からの議論によるものである。類似しているものだと見なして、それらについて同じあつかいをするようにするものだ。これに反論するには、類似したものではないということで、差異があることをさし示せばよい。ちがいがあるということもできるのはあるから、(類似したものだということにたいして)反論できるところは少なからずあるのはまちがいない。

 参照文献 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信