一〇代の若者が環境のことをうったえることと陰謀理論―ヘゲモニー(呼びかけ)の活動

 西洋では一〇代の若者が個人で環境の問題をうったえている。その活動をしていることについて、大人に操られているのだという見かたがとられている。

 一〇代の若者が環境の活動をするのは、大人に操られていることによるのだろうか。そうであるというはっきりとした証拠となる事実がないのであれば、そのおそれがあるという域を出そうにはない。

 環境のことについてを議論するさいに、避けるようにすることがのぞましいのは、陰謀理論を持ち出すことだ。一〇代の若者が環境のことをうったえるさいに、それを大人に操られていることによると見なすのは、陰謀理論を持ち出すことになる。それだと生産的で建設的な議論を行なうさいのさまたげとなりかねない。

 (一〇代の)若者が大人に操られるとはどういうことか、というふうに問いかけを投げかけられるかもしれない。そのさいの大人というのを、かりに政治の権力だというふうにできるとすれば、政治の権力に操られるということになる。政治の権力に操れるというのは、政治の権力に都合がよい主体が形づくられることだ。聞き分けがよい主体である。

 政治の権力からの呼びかけにすなおに応じてしまうような、聞き分けのよい主体が形づくられることになれば、その若者は大人に操られているということができるのではないだろうか。そうしてみると、若者が大人に操られているか、それとも操られていないかというのは、はっきりと線引きできることというよりは、ていどのちがいにすぎない。質のちがいであるよりも量(度合い)による。

 若者が自分たちでどういうことをよしとしたりよしとしなかったりということを判断して自己決定ができるようにすることがあってもよい。それは民主主義においては、さまざまな言説(主張)があらわされることにつながって行く。さまざまなヘゲモニー(呼びかけ)の実践が行なわれることをよしとするのが根源の民主主義(ラディカル・デモクラシー)であると言われている。若者が(だからといって)それをしてはいけないということはとくにないことだろう。

 参照文献 『思考のレッスン』丸谷才一 『帝国の条件 自由を育む秩序の原理』橋本努 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『構造主義がよ~くわかる本』高田明典(あきのり)