過去の忘却と想起―忘却や隠ぺい(レーテイア)と、非忘却や非隠ぺいである真理(アレーテイア)

 過去をふり返っても生産性がない。文部科学大臣はそう言ったという。

 文科相が言うように、過去をふり返ることには生産性がないのだろうか。

 過去をふり返ることに生産性がないというのは、過去をふり返ることをそのように性格づけするということだ。この性格づけはまったくもって当たっているものだとまでは言いがたい。一般論として通じるとは言えず、基礎づけすることができないものである。

 生産性というのを有用さと言い換えられるとすると、それがないというのは無駄だということだ。無駄かどうかというのは目的と期間によって決まるのだと学者の西成活裕(にしなりかつひろ)氏は言っている。目的や立ち場や期間しだいで、無駄になったり無駄にならなかったりする。あらかじめ無駄かどうかは決まっているものではない。

 一般的に言って過去をふり返ることには生産性がないと言うことはできないので、過去をふり返ることには生産性がないという文科相による性格づけは適したことだとは言えそうにない。原則として、過去をふり返ることには生産性がないと言うことはできないし、かりにそう言うのだとしても、そこには例外がいっぱいある。

 過去と現在と未来というのは、それそのものがよいとか悪いとかといったものではなくて、時間の流れにまつわるものである。時間が流れることで過去や現在や未来の幅がおきてくる。そうであることから、過去や現在や未来ということそのものは、何か特定の価値または反価値をもっているとは言えず、どちらかというと価値として中立なものだととらえられる。

 過去そのものがよいとか悪いとかとは言えないので、過去をふり返ることそのものもまた、それだけをもってしてよいとか悪いとは言いがたいものだろう。事実としての過去というのは、あらかじめ何らかの価値または反価値をもっているものとは言えず、そこに意味づけをすることによって、それがよいとか悪いとかということになる。

 過去をふり返ることは消極で、未来に目を向けることは積極だということは言えるのだろうか。それは過去や未来にたいする意味づけをしていることによるものであって、その意味づけはふさわしいものだということはできそうにない。むしろそれは反転させることがなりたつ。未来ではなくて、過去をふり返ることこそが積極の意味あいを持つ。過去をふり返るという消極のことであっても、ただ消極だと見なすだけでは不十分であって、消極の中にある積極のところを見なければならない。プラスの中にマイナスを見て、マイナスの中にプラスを見ることがなりたつ。

 一般的に言うと、できごとというのは事後性があって、それがおきてはじめて、それがおきたことがわかると言われている。できごとがじっさいにおきて形になってはじめてそれを認められるようになる。できごとには事後性があるので、それについてを見て行くには、うしろにさかのぼって遡及(そきゅう)して行かないとならない。因果関係においては、原因から結果がおきるのではなくて、結果から遡及して原因を見て行く。原因を見て行くのは、時間の前後関係からすると過去をふり返ることである。原因を探ることに意味があるのなら、過去をふり返ることにもまた意味があるだろう。

 参照文献 『無駄学』西成活裕 『対の思想』駒田信二(しんじ) 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『自己変革の心理学 論理療法入門』伊藤順康(まさやす) 『「紙の本」はかく語りき』古田博司(ひろし) 『知の論理』小林康夫 船曳建夫 「いま、敗者の歴史を書くべきとき(戦後五〇年目の年 日本の論壇)」(「エコノミスト」一九九六年一月二・九日合併号)今村仁司