身の丈の偶有性―それぞれの置かれた状況のちがいによる有利と不利がある

 身の丈に合わせてもらいたい。新しく行なわれる大学入試の英語の民間による試験について、文部科学大臣はそう言った。その発言について批判の声が色々なところからおきている。それにあわせて、新しく行なわれる民間による英語の試験そのものに欠陥があることが指摘されている。

 この話とはじかには関わらないことではあるが、身の丈というのは興味深いところがある。身の丈というのははたして何をさし示しているのだろうか。色々に見なせるのはあるだろうけど、一つにはそれは形ということではないだろうか。

 身の丈に合わせるというのは、形に合わせるということである。形をよしとする。このさいの形というのは、身持ちや立ち居ふるまいをさすものであるというラテン語ハビトゥス(habitus)だととらえられる。

 自分のハビトゥスを固定化させるのではなくて、それをよいものに変えて行く。それをうながすものとして教育がある。そうとらえることができるだろう。いまある形に甘んじるのではなくて、それを変えて行くのをよしとするのは、力によるものである。

 物と形と力の三つのものがあるとして、身の丈に合わせるのは形によるものだが、それだと静態(スタティック)によることになる。それにたいして力をとるようにして、形を変えて行くことができれば、静態ではなくて動態(ダイナミック)にすることができる。自分が思いえがいた形にいたれるように、それを教育があと押しして、動態の力によることができるようにすれば、のぞましい形(ハビトゥス)になりやすくなる。

 教育というのは、若いときだけに限らず、自分が思い立ったときに、たとえどのような年齢であったとしても、いつでも自由に受けられるのが理想だ。いやいやさせられるのではなくて、自分が教育を受けたいと自発的に思ったときがいちばん吸収率が高い。そうした理想のあり方は現実にはなかなか難しいのはあるが、いつでもやりたいと思ったときに自分の身の丈を変えることができれば自由の度合いがより大きくなることが見こめる。

 参照文献 『〈つまずき〉のなかの哲学』山内志朗(しろう) 『こんなに面白い西洋哲学[思想と歴史]』竹田純郎(たけだすみお)監修 大城信哉(おおしろしんや) 『ちょっとおかしいぞ、日本人』千葉敦子